目標が見つからず、ただただ疲れました。
お忙しい中、こんな質問をするのもどうかと思いましたが甘えさせていただきます。
人生において好きな事、目標、興味といったものが全く思いつかず、嫌だと感じる事ばかりです。
干渉の多い両親が嫌で離れて暮らす為に嫌いな勉強に励み、特に興味も無いが他の科目より点数がとれる学部へ進学するという嫌な事から逃げ続けている人生です。ですが、最近は家事、学業、アルバイトなど何をするにも「もう嫌だ」という考えが頭の中に浮かんで消えず、泣きながら諸々の作業を投げやりにこなすばかりです。
人に対しても物に対しても自分から関わりたいと考えることが無い上に私自身能も無ければ人間的魅力も全く持ち合わせていない為、恋人おろか友人すらいません。食べ物や娯楽作品についても他の方々のようにその為に行動を起こすには至らず、勧められたりすれば一度は試してみるものの「こういうものか。」という感想とも言えぬ感想しか抱きません。
上記の様な有様なので人生を送る事をプラスと取れません。周囲の人間も私の事を自分からろくに喋らない、誘いにも乗らない、返事も返さない、言うこときかない、かといって目的もって行動しているわけでもない、と煙たがっています。
他人にとっても私にとっても私が生きていてプラスになる事等一つも無いのです。
ここまでの無い無い尽くしにとどまらず、更に私は死ぬ勇気すらありません。過去に飛び降り、OD、首吊りを何度か道すがらなんとなくやってみましたが痛く苦しくあれ以上の苦痛を乗り越えないと死ねないのかと考えると再度実行する気になれません。
豊かな時代の贅沢だと言われればそれまでなのですが他の方々のように何かを楽しい、嬉しいと感じる足がかりはどんなところにあるのでしょうか。
若しくは生きるか死ぬかどちらでもいいので少しでも楽になる考えなどはございますでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
モラハラの弊害の可能性も・・
tktr様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
少し極端なお考えになられておられて、自信もすっかりと失われているご様子・・
自信は、有り過ぎてもいけないのですが、無さ過ぎてもいけません。
また最初からあるものでもなく、どこかから突然にやってくる、というものでもありません。
それは、目標や夢、興味なども同じです。
では、それらはどのようなものになるかと申しますと、因縁(原因と条件)次第により成り立っているものとなります。
貴女様が楽しい、嬉しいと感じる因縁が何になるのかは、わかり得ないところでございますが、今まで全く無いということはなかったでしょう。全く無いとなれば、話はまた別になりますが・・
その今まであった楽しい、嬉しいと感じることのあった因縁をヒントに、そこへと目指して、これからの因縁を調えるのに努めることが必要になります。
それと、もう一つは、やはり親御さんのことも大きいのでしょう・・
ある意味ではモラハラによる弊害です。
まず自覚のないことが多いのですが・・どうでしょうか・・
もしかしますと、自分はモラハラの被害者という認識と共に、適切な心のケア、カウンセリングが必要なことになるかもしれません。
最近では、大学内にカウンセリングのセンター・ルームが常設されているところも多いですので、ありましたら、一度カウンセリングを受けられてみられても。
善処を祈念申し上げます。
川口英俊 合掌
根本の見直し
拝読させていただきました。
親の影響、家庭環境はあるとおもいますが、家から離れてからも、「思いの習慣」がへばりついているのだと思います。人とは信頼できないもの。世界は信頼できないもの。世界は閉ざされたもの。世界を楽しめない私。…そうゆう人生観、世界観、自分観を間違って植え付けられたというか、そう思ってきてしまったのだと思います。そこから正しましょう。疑いましょう。
自己肯定感とか自己基盤といわれるものは、決して自分で作り上げていくものではないとおもいます。自分の「思い込み」を手放したときに既にあるものです。手放したときに自然に入ってくる。
ですが、そうは思えないと主張するのが、「過去の記憶」やそこから生まれる「ネガティブな思い」です。でもそれは事実ではありません。ただの記憶です。そしてその記憶は私自身ではありません。
「過去の記憶のなかで苦しむ今の私」
「過去の苦しい記憶を今見ている私」
どうでしょうか?前者は、記憶を事実だと思い込んで、記憶に巻き込まれてしまっている印象です。
後者は、記憶を「今はないもの」と理解し、今少し離れたところから眺めている印象です。
後者がホントです。前者は脳みそに騙されているだけです。
自分を癒してくれる力は、すでに自身の中に備わっています。ですが、頭で勝手に「私には~が足りない、欠けている」と決めつけ思い込んできた結果、その力が身を潜めてしまったのだと思います。
首から下の身体を感じてみましょう。呼吸を感じてみましょう。「感じる」をもう少し自分のなかで大事にしてみましょう。
記憶に騙されず、思いに騙されず、親から名付けられる以前の「なにものでもない私」を悠々といきていきましょう。大丈夫です。私の「見方」が変われば、世界が変わります。