菩薩に救われても菩薩になれない愚かな私…。
ご質問させて頂きますハルソラと申します。
つい先日あった事です。私が駅の階段を降りていると下から60代くらいのお婆さんが登ってきました。
そのすれ違いざま、全くぶつかるような距離ではありませんでしたが、お婆さんは下を向いて階段を登っていたので、降る私に少し驚いた様子で、その3秒後くらいに転倒していました。
本来なら声を掛け、介抱するのが良いのでしょうが、とっさに私の脳裏に浮かんだのは以前ニュースにもなった、中国で自分で転倒したお婆さんを介抱した男性がそのお婆さんから訴えられ賠償金を請求されたという酷い話です。
幸いな事に駅の階段で転倒したお婆さんは自分で立ち上がり、歩き始めたので骨折などはしていないようでした。
ちなみに以前にも旅先で10メートルほど離れた場所でお婆さんが道路の縁石に足を引っ掛け頭から転倒し、「あっ死んだかな!?」と思うくらいの勢いでしたが、お婆さんは自分で立ち上がったので助けたりしませんでした。
タイトルにも書いた様に私は観音さまに救われています。
それは苦しくて、苦しくて仕方がない私の人生において、観世音菩薩を一心に念じるだけで現状は変わらずとも、既にその心に平穏平和が訪れるという意味で救われていると思っています。
しかしながら私が他者に真に手を差し伸べる事は難しいと思われます。私にはその心の余裕と菩提心が足りないのです。
私がこの人生で求めるものは、もはやお金でも名誉でも結婚でもなく、「仏のようになりたい」ということですが、先はまだまだ遥かに遠いようです…。
一体どの様に考え行動すれば菩薩の心境に到れるのでしょうか?
お坊さまのご回答、ご教授よろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
菩提心
拝読させていただきました。
菩提心は、「足りない」のではなく、「気付けていない」のだと思います。「余裕」というのも、作るのでも持つのでもなく、「空ける」のかなと思います。
菩提心も余裕も、邪魔をするのは自分の「考えて」とか「解釈」とか「知識」です。それらを取り込んで自分をガチガチに固めていくのではなく、あくまでも道具として、自分の周りに置いておくような…。自分は固めず、常に「からっぽ」にしておけば余裕もあると思いますし、からっぽだから全ての人を受け入れていけると思います。
知識や考えが「自分自身」になってしまっていると、その自分越しに分別や価値付けがはじまります。
菩薩の心境は到達するものではなく、すでにあるものに気付き、深めていくものだとおもいます。
菩薩道を歩んでくださいね
拝読させて頂きました。読ませて頂き大変悲しいと思いました。
人を助けることができなかったとき、脳裏によぎったことが訴えられたというニュースだったから手助けしませんでした、ということについて確かになかなか難しい部分もあったとは思います・・・。
が、しかし自分の菩提心がないから助けられらなかったという理由は私は言い訳の様に感じました。
目の前に困った方・お年寄りの力のない方が倒れたのならばやはりお助けになって頂きたいと切に願います。
仏教の目指すところはあなたもご存じの通りすべての人が仏になり円満になることです。
その修行の志すこととして
七仏通誡偈があります。
諸悪莫作(しょあくまくさ)もろもろの悪を作すことなく
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)もろもろの善を行い
自浄其意(じじょうごい)自らそのこころを浄めて
是諸仏教(ぜしょぶつきょう) これがもろもろの仏の教えなり
人として生きる道を説くことはおこがましいかもしれませんが、
困る人を助けていくことそしてその心を自分が持つこと、それが菩薩道です。
佛を信じ正しい行いをすることが自ずと菩提心が養われ行くことかと私は思います。
あなたがこれから素直なお気持ちでどうか心清く正しく生きて頂き、菩薩道を歩まれて菩提心を起こして真の仏様となっていかれますことを切に切に願っております。
質問者からのお礼
お礼が遅くなって申し訳ありません。
頂いたご回答のお言葉に思案を巡らせておりました。
私が目指していたのは自分が救われんが為の小乗仏教だったのかなと思います。
生きるのが苦しい私にとっては大事な過程だったとは言え、今後は人々の救いになれる大乗仏教を目指していきたいと思います。
ご回答誠にありがとうございました!