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腹立ちを押さえる方法

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有り難し有り難し 22

職場で 上司や同僚にイライラして腹が立ちます。
ストレス解消に何かしたいと思っても何をすれば スッキリするかわかりません。
あと、
腹が立った時に 自分で沈めようと思っても おさまらず 家でも不機嫌になってしまいます。
いつも 笑っていたいと思っても中々そういう風には出来ません。
どうすれば、イライラしないで 穏やかにいられますでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そういう方のためにこそ坐禅はある

('◇')🚬あんたにゃ、どーせ無理っスよ。
一生イライラして過ごしなさい。
怒りなんざ自業自得っすよ。ぷぷぷ。
注※怒りの心に向き合っていただくために、あえて挑発的な表現をしております♡
さてさて、おムカツキになられましたでしょうか。
❝なっ!(-""-)❞と反応や反発が生じたでしょうか。
では、今からその怒りの内部・中心をよく見つめてみましょう。
発生源、震源地はどこにあるか。
何をもととしているか。
皆、自分の内側です。
皆、自分ルール・エゴ・自己チューを基としています。
「この自分自身」をあたしだ、アタシだと過剰に認める「自分の心身全部100パー、アタシのモン」と誤認するものの見方こそが、あなたの怒りを過剰に発生させて苦しませているのです。自分の心身であっても、この心身は自分のものではありません。呼吸だって目が見えるのだってあなたの命が自然にやってくれているだけであなたの意思でやっているわけではありません。
自分濃度が濃ければ自分のルールに反することに過剰反応してすぐにプンスカ激おこぷんぷん丸になるのは当然です。
まずは「自分ルール、期待、求めを他人に対して持たない」ことです。
無心でなく無私モードで生活することです。
それを極めるには坐禅が一番です。
この心身がワタシではないとはっきりするからです。
怒りをよく眺めてみましょう。
その心が発生した時点は人畜無害。無毒でしょう。
あなたは今まで怒りの心がムカムカ沸いた時、知らずのうちに、その怒りの心に引きずられていただけです。怒りをおさめることが上手な方は発生直後、それに関与しません。
あなたは単サイボーだからすぐに反応してしまう。超短絡的単純思考の単細胞ライフだっただけなのです。
※注 怒りを克服していただく為に質問者様をあえて怒らせる表現をしております♡
よって、今日からは赤い布を見ればモー!🐄と怒る牛やイノシシのよーなアンタの、すぐ怒りに支配され猪突モー進する生き方、やめましょう。
怒りの心が現れたならば、そこで余分な追加をしないのです。
怒りははじめは自然に現れただけです。
マイルール・理想を持たなければ怒りは沸きません。
ですが、会社で苦手な方が現れてイラつかせる一言を言われていざ、怒りが出た時があなたの修行のいい機会です。
第一次発生時点のまま「余分な追加をしない」を実践してみましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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