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子供の結婚の日について

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久しぶりに質問させて頂きます。
先日 長女が結婚式の日取りを決めたと報告が有りました。
我が家は神道ですが、折には日柄?大安とか仏滅を気にしております。
長女が決めて来た日は先勝ですが、日めくりに結婚など悪日と書いてありました。
気にしなければ良いのですが、やっぱり親として気になります。
そう言う日は避けた方が良いのでしょうか?
12月19日ですが、挙げたい式場が年内はその日しか空いてなかったそうです。
しかも時間は午後3時からです。
今さら日取りを変えなさいとも言いにくいですしどうしたら良いでしょうか?
アドバイスを頂けたら有りがたいです。
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

春風さん 初めまして。四国の讃岐と申します。
六曜で日にちを見ると結婚式に適さない日にちとのことですが、気にされなくても良いと思います。
どうしても気になるようでしたら、結婚とは当人同士もさることながら、家同士も繋ぐ大切な式ですので、結婚式の前に両家の御墓参りに行って、両家のご先祖様に両人の幸せと両家の繁栄をお願いしてみてはいかがでしょうか。日にちが悪くても、きっとご先祖様が助けてくれると思います。

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個別相談可能
私は日蓮宗 今治 寺町法華寺の住職をしております讃岐英昌(サヌキ エイショウ)と申します。 今現在 しゃべって話せる僧侶を目指し精進しております。
相談時間は基本30分とし、30分を経過すると一度、電話を切らせていただきます。

実は曜日も吉凶占い

ご存じでしょうか?
今我々が普通に使っている曜日(日月火水木金土)も、六曜と同じく吉凶を占うためのものなのです。
曜日は六曜よりも古く、平安時代に真言宗の祖空海が持ち帰った「宿曜経」から来ています。
「宿曜経」という経典は、古代インド占星術を説いたもので、古代ギリシアや古代エジプトの影響を受けたものだと言われています。

明治6年(正確には明治5年12月3日)に、それまでの太陰暦(旧暦)から現在の太陽暦に改変になりましたが、それまでの日本では、今の七曜はあまり使われていませんでしたが、グレゴリウス暦と合わせるために元々の成り立ちがが同じ七曜が使われるようになりました。

しかし、七曜(曜日)は本来、吉凶を現すもののはずなのですが、
誰も「今日は曜日が悪い」なんて言いませんし聞いたこともありません。

六曜は、一年を360日+うるうで計算する太陰暦(月の満ち欠け)を使っていた日本にとっては都合が良かったはずですが、実際には暦注や二十八宿が使われて六曜はほとんど使われていませんでした。

六曜が一般化したのは、太陽暦を導入した明治6年以降のことです。
(新旧の暦はしばらく平行して使われていて、実際には全てのカレンダーが太陽暦になったのは明治31年からのことです。)

明治政府(国家神道)は占いは迷信として禁じたので、カレンダーにそれまでのような詳細な占いを書けなくなり、記述の簡単な六曜が使われることが増えたのです。
実際に今のように普及したのは、法律が変わった戦後のことです。

六曜は今の曜日よりも固定されていて、旧暦の元旦は必ず先勝から始まり、うるう月は前の月に準ずるという付け方ですので、毎年同じ配列になります。

ですから、六曜で吉凶を占うのは、
言い換えれば「日曜は縁起が悪いから月曜にしよう」と言っているようなものなのです。

あまり当てにはなりませんから、心配しないで記憶に残る素晴らしい結婚式を挙げてあげて下さいね。

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六曜は中国の曜日

私たちは7つの曜日を使いますが、以前の中国では6つの曜日「六曜」を使っていました。
日本では江戸の後期から頻繁に六曜が使われるようになったと言われますが、仏教のものでもなければ神道のものでもありません。
いわゆる民間信仰の占いと考えられたら結構です。
全く気にする必要はありませんから安心してください。

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始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学の身でありますが、多くの方のお支えの中で日々精進しております。 仏教には、「私が知らないことを仏様から聞かせて頂く」という大切な側面があります。 聞かせて頂くのは、仏様の智慧であります。 今まで仏様のご縁が遠いと感じておられた方が、少しでも仏法に触れるご縁になれば幸いです。

日そのものにラベルはついていない

物事の本質は、日そのものには何の日であるとかついていません。
気になさらないことです。
本来、仏教では、そういう思想はありません。
六曜は、それを定めないと、業者さんたちも休日がありませんので、現代では役立っている習慣ですが、実際の現実には、人間の観念による意味づけというのはどこにもついていないものです。それが、本来の様子ですから、あまり気になさらないことです。
子供の結婚の事には、あまり親御さんは口を出さずに見守ってあげることです。
結婚とは、子供も親離れする。親も子離れをするべきものです。
あなたの子離れは、もう始まっています。
これは、子離れするための第一関門だと思うことです。
お嫁さんと仲良く、あまり高いレベルを期待せず、姑ぶらず、自分たちの時代の価値観を押し付けず、お互いが自由であることが、今後、ぶつかり合いも亡くなるための良い在り方です。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

アドバイスを頂き心が軽く成りました。
挙式前にそれぞれのお墓に報告を兼ねてお墓参りに行きます。
ありがとうございました。

アドバイスを頂いた僧侶の皆様 ありがとうございました。大安、仏滅とは仏教の物では無いのですね。勉強に成りました。皆様から気にしないでとのお言葉に安心して子供達の結婚式を楽しみに迎えられます。
一生に一度の事、心に残る挙式にしてあげたいです。

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