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仲間内で一人だけ恋人がいないため話題についていけません。

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学生時代からの友人のグループで、恋人がいないのが自分一人になってしまいました。
友人たちとは半年に一度ほど集まっていたのですが、女性同士の集まりということもあり、話題の7割が恋愛の話です。

私は今まで恋人がいたことがなく、友人たちの話を聞いていると愛されていて羨ましいなあという気持ちが強くなってしまい、最近はとうとう集まりに顔を出すことができなくなってしまいました。
友人たちのキラキラした話を聞いたあとに「○○ちゃんはどう?」と聞かれ、笑顔で「私は何もないんだ~」と言わなければならないのがつらいのです。
恋愛の話を聞くのがつらい、友人たちのことを嫌いになったわけではないということは何人かに伝えています。

悩みは2つです。
1つ目は、今後友人たちとどのように付き合っていけばいいのか。
友人たちが結婚、出産と人生のステップを歩んでいくのに、自分はずっと独身のまま…となれば、話が合わないことは必然だと思います。
(自分は仕事があまりできないため、仕事に打ち込んでいるという言い訳はできません。趣味は大好きですが上手と言える腕ではありません。)

2つ目は、恋愛をするために踏み出す勇気が出ないことです。
20代後半まで恋人がいないのは人としておかしいのかと思い、街コンなどにも行ってみましたが、うまく話せず散々な結果に終わりました。
そのトラウマもあり、婚活パーティのページを見ては自分にはハードルが高いとため息をついています。
恋人が欲しいといっても、友達との話題づくりや、世間体のためという部分があります。人の恋愛話は羨ましいですが、正直自分が女性として男性に愛されるビジョンが描けません。

長くなってしまいすみません。
月に2回くらいこれらの悩みが出てきてはどうにもできずモヤモヤしている状態です。
アドバイスを頂ければ嬉しいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の予想を優先しないようにすればよい

お友達と会って話すにしても、恋人となる方との関係にしましても、こう考えてください。
「いつもあらかじめこうだと思ってしまうけど、ぶっちゃけそうなったためしがない。」
人間関係というものはライブです。アドリブです。現場です。その時限りのリアルタイムです。
絶対にあなたが思い描いた通りにはならないという事をよーく弁えておきましょう。
ご自身の人間関係はおそらく、相手に対する関わり方をいつも事前に想定されておられるでしょう。
ですが、それ通りになったことは一度たりともなかったはずです。
むしろ、自分の思い通りになって欲しいというお気持ちが優先されて現実の真実の相手と現場のやり取りがおろそかになってしまっていると思います。
人間関係というものはいつでも現場です。
部屋の中、布団の中で思い描いている人間関係は夢想です。
自分の想定する最悪の事態であったりするもので、実際のものではないはずです。
そこをよく弁えて現場のリアルタイムでだけ関わるようにすれば心の中のもう一人の相手が消えてコミュニケーションは楽になるはずです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様
ご回答ありがとうございます。
現実のやり取りがおろそかになっているというご指摘、ぐさりと来ました。その通りだと思います。
また、思い描いたコミュニケーションと実際が随分違うということもこれまで何度もありました。
長年の癖を直すのは難しそうですが、できるかぎり頂いたアドバイスを意識したいと思います。

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