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再婚した旦那と 私と、私の連れ子の関係

回答数回答 2
有り難し有り難し 23

初めまして。
再婚した旦那と、私の連れ子12歳と5歳娘との関係で悩んでいます。
結婚して1年と少し経ち、私と旦那との間には今は3ヶ月になる娘も産まれました。
私の1番上の長男は養子縁組しておらず、今の旦那と同居する前から別居しています。
昨日、離婚の話になりました。今ではもう一度頑張ってやり直す事にはなりましたが、もぅ何度も娘2人の事で喧嘩をしています。
私も原因があるのですが、昨日旦那からは、

俺が怒れば、お前は子供が悪くても子供をかばう。だからお前の言うことしか聞かない。
俺の事パパって呼んでくれるのは、父親としてではなく、ただのあだ名なんだよ。
俺の居場所はなくて、みんな俺の敵で、もう辛くて全部面倒臭い。 そう言われました。

確かに、5歳の子供が悪くても叱られているのを見ると可哀想になります。激しく怒鳴り散らすとかではないのですが、旦那も娘を押さえつけて動けなくして、言い聞かせます。
私も育て方が悪かったせいか、5歳の娘も大声出して泣いて、旦那を叩こうとするからです。
12歳の娘はパパとは呼びません。仲は悪くないのですが、完全に友達感覚で接していて、旦那はもう12歳だから仕方がないと言いますが、やはり辛いようです。
私も、4年以上前に離婚してから、子供を守らなければいけないと言う思いが強すぎるみたいで、時々、再婚した旦那も、全部捨てて居なくなるんだろうと言う考えが頭から離れず、完全に旦那として、子供の父親として見れないんだろうと思います。

ずっと、どうすれば良いか(自分の考えも)考えてきましたが、今も答えは見つからず、もう一度やり直す事にはなりましたが、離婚して旦那を解放した方が良いのか、悩んでいます。
旦那も、旦那として、子供の父親として、とても良くしてくれます。今で言うイクメンって感じです。
どうすれば、少しでも子供達は父親として、私は旦那や子供達の父親として見れるのでしょうか?
アドバイス頂けたらと思います。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

しばらく、役割を逆にしてみる

怒ると叱るは違うように思います。
旦那様は怒るのですよね。そこに愛情ではなく感情がなってしまっているからかわいそうに思うのかもしれません。
叱る、には愛情があります。導こうとする冷静さがあります。叱られた方も、認めるしかなくなります。

旦那様にはまだ早すぎるのかもしれません。時間がかかることかもしれません。だから、今は叱る役はお母さん、なだめ役はお父さんと役割を逆にしてみてはどうでしょう。
信頼関係がしっかりできて、心の底からお子さんを愛せるようになったら自然に叱ることもできるのではないでしょうか。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

あえてパパしかいない環境を

男性は依頼をするのが効果的です。
男性は何も頼みませんと自分の事しかやらない生物です。
私もワイフから何も頼まれませんとhasunohaの回答ばかりです。
ですが、誰かの何かにお役に立とうというモチベーションは常に持っているものです。
女性は妻という立場として旦那さんを上手にコントロールしてそれを上手に引き出してあげることも大切です。男性の映画は男性が任務をこなす系の映画が多いものです。
役割を与えられればオスは自分の存在意義の為にもいくらでもモエるものです。
その為には女性からの上手な導きも必要であろうと思います。
旦那さんを寝た切りスマホおじさんにさせるのも、使命感を与えてもののふのように、命を賭して何かを勤めるような人間にさせるのも奧様の愛とヨイショと力量しだいです。
家庭の中では何となく誰かが主導権を握るものです。
子供といってもそれぞれ別人格様です。
それぞれ尊厳があります。
それぞれ好きなことをします。
お母さんという立場を一度離れてみると、子供たちにとってはパパしかいません。
するとパパに役割が生じます。
今まではママありきのパパというサブキャラでしたが、パパが家の主人公になります。
するとパパはいえの中で役割を見出して、ああ、俺にもできることがあるんだなぁと責任感が生まれます。
必要とされてそれに答えない親はいないと思います。
私は子供が私と寝たがる日が続いて、一緒に寝てあげられないと申し訳ない気持ちにすらなります。
一度ねる部屋を分けてみるなど、子供たちとお父ちゃんだけの関係を作るようにしてみてください。
何ともいいバランスが再構築される事でしょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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