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生き物

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すみません、先ほどの質問で付け足したいことがあります。供養はした方がいいですか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

供養とは自分の心に向き合い精神的に向上していくこと

私は「供養をしてもらうだけではいけない」と思っています。
「供養」という事が何をしているかを全く分かっておられないまま、いくら供養供養といっても、ポクポクしているだけに過ぎないのではないでしょうか。
仏教の供養とは人任せでは供養をしてもらっても、供養をする意義の半分しか埋められていません。
たとえば極端な話ですが、私が人を殺しても供養さえすればOKなのでしょうか。
いけませんよね。
では、供養とは何をするべきことでしょうか。
供養ならお金を払えばどこでもやってくれます。
むしろ、そういう所は金儲け主義の供養もあります。
自分が動物殺しちゃって苦しいよ、どっかで供養してもらえばいいだろうか。
罪が帳消し、チャラになるだろうか、じゃぁ、供養しよう。
「供養お願いします。」
「マイドアリ」
というわけではすまされないでしょう。
世間の犯罪者たちを考えてみてください。
その人を殺してしまって、供養をしたらあとはどうでもいいのでしょうか。
また殺して供養すればOKでしょうか。
大切なのは、今後の人生の進むべき道をしっかりと方向性を定める事。
仏教の本来の供養とは、現代社会で世間の勧めるいわゆる法事すればOKという感覚ではありません。
開眼供養も真の開眼に対する見識が無ければわけもわからずダルマに眼を入れるようなもの。
そこに菩提心を立てることで本当の供養になるのです。
司祭を勤める人も金さえくれればいくらでも法事しまっせという方も居ます。
自分が何の為に法事をするべきか。
何の為に供養をするべきか。
自分がより良い人間性に目覚めてそのハト一匹の死をもってより多くの生命を活かすべく、より良く生きる。
あなたが過去の過ちを教訓として、その生物によってより高い人間性に導かれていくように、自身の自我、エゴを恥じより高い人間性に目覚めるべく誓願を発するのです。
供養とは亡き人、亡き生命への供養のみならず、参列する人間の精神的向上も求められるものです。
どうか、誓願を起こしてください。
今後のより良い人生の為にも誓いや願いを第一に仏心、菩提心を強く起こしてのち、供養に臨んでください。それによって、あなたのその生物に対する気持ちが浄化、昇華されてあなた自身も立派な人格者になっていかれるのです。
これはプリントアウトして、道に迷った時にご覧いただければありがたいです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

供養することが好ましいでしょう。

供養したいという気持ちがあれば供養して下さい。

ペット霊園のあるお寺さんが一番適切だと思います。
ネットで調べれば分かりますよね。

hasunohaでもペット供養をされているお寺さんは検索できますよ。
できれば、供養する経緯も打ち明けていただいたほうがいいと思います。

ペット供養というネーミングでも、動物全般に通用します。
本当に鳩さんの事を大切に想われているのですね。

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有り難し
おきもち

時宗の寺院で住職をしています。 今の時代、お寺の在り方とは、僧侶とはいったい何か?と、考えています。 僧侶としての根本は、朝のお勤めだと考えております。 週に2回、お寺で空手教室を開いております。 近隣の子供たちに、礼儀作法を伝える。 これも寺院の持つ役割である、地域貢献に繋がると、少なくとも私はそう思い、精進しております。

質問者からのお礼

回答いただきありがとうございました。
供養よりも自身の気持ちが大切です。
もっと一生懸命そして他人、あるいは全ての生き物を助けるように生きていきます。

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