生きること
私の過去の選択のせいで、たくさんの人に迷惑をかけてしまいました。
そして、一人の人からは恨まれる結果となってしまいました。
あのときの人生の選択のせいで、今でもずっと恨まれて生きるのは辛く、また過去に遡っては後悔の念が消えません。
罪悪感ばかりが年々増していきます。
どうしたらこころがかるくなるのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
徳を以って怨みに報ずる
みっきーさん、ご質問ありがとうございます。
お気持ち拝察いたします。
私も、過去に人に怨まれるようなことを行いました。
後悔もしましたし、反省もいたしました。そして、悶々とする日が続きました。
しかし、そういう日々を続けても意味がないことに気が付きました。
経本の中の言葉が、気づかせてくれました。
伝教大師最澄の言葉です。
「怨みを以って怨みに報ぜば、怨み止まず。徳を以って怨みに報ぜば、怨み即ち尽く」
「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」
恨みとは決して消えないものなのか。
恨みとは恨みでしか重ねることは出来ないのか。
恨みとずっと付き合わなければいけないのか。
恨まれていることをしてしまった自分を恨み、負の連鎖になっていないか。
そんな忸怩たる思いの中の明解な言葉でした。
恨みを以って恨みに対峙していては、結局は恨みは止まない。
徳を以って恨みに対峙していけば、恨みは尽きる。
僧侶でよかったと思えた瞬間でした。
そして、その徳の積み方は慈悲の実践だということも同時に
「己を忘れて他を利する、という利他行」である。
ということで伝教大師の言葉が繋がりました。
中々実践に移すことは難しいですが、日々少しずつやっていくことによって
恨みが少しずつ無くなり、徳を積むことが出来るのではないかと思っております。
変えられない過去にしがみついたり
変えられない相手にしがみついたりするのではなく
変えられる恨みへの考え方と
変えられる日々の行動に焦点を当てることで人生も変わってくると思います。
恨みの連鎖ではなく、徳の連鎖を作れることが出来るのも人間だと信じています。
自宗派の宗祖のことばかりになってしまいまして恐縮ですが
みっきーさんだけではないということを感じて頂ければ幸いです。
繰り返さないこと
私にも考えると悔やまれる過去がたくさんあります。
私の意図とは反対に、人の心を傷つけ恨まれもしました。
私の意図がどうあれ、受け取る側からしてみれば一方通行ですから、言い訳をしても仕方がありません。たぶん今でも恨まれているかも知れません。
今の私の中にも、その念は消えてはいませんが、後悔はしていません。
なぜなら、同じことを二度と繰り返さないことこそが、私なりの償いだと思っているからです。
その過ちに関して、私が自分に対してやったことは、それまであった自分の過ちを反省し、同じような間違いを二度と繰り返さないと心に決めた、ただそれだけです。
その方たちには許してもらえないかも知れません。
でも、その方たちがいたから、私は過ちに気付くことが出来たのです。
恨まれていても、その方たちには感謝しています。
今も、その方たちと時に関わりがありますが、その方たちが常に目の前にいるわけではないのに、そのことばかりを考えていても仕方がありません。
そのことばかりを考えていては自分がいつまで経っても先へ進めません。
逆に、それを踏まえた上で自分が先に進まなければ、それを繰り返さない自分自身つくることも出来ません。
マイナスのイメージは、マイナスの要素を呼び、今以上にマイナスの方向へと引っ張られしまいます。
かといって、無理にプラスをイメージしようとしても無理がありますから、無理してプラスにも考えない。
その時にあったことを真摯に反省して「こうだったから次はこうしよう」「こうならないように気を付けよう」これで良いのだと思います。
目の前にあることを、ただ淡々とこなしていく中で、その時の反省の結果、自分が得られたものを役に立てていく。
これしか今の自分にはできません。
それどころか、今の私にとってその方たちは、私を気付かせてくれた恩人にさえ思えています。
過去を引きずるのではなく、過去を経験した自分が、今を懸命に生きていくことが、もしも誰かの役に立つならば、直接でなくてもあの時こうしてしまった自分自身への償いにはなると信じています。
過去の過ちは過去の自分が起こしたこと、今の自分はもう繰り返さない。
それで良いと思いますよ。
生きているということは
みっきーさんへ
どんな人だって、一人では生きていけないから、
大なり小なり、周りに迷惑をかけながら生きているはず。
生きるということは、そういう事ではないでしょうか?
永六輔さんの詩に
『生きているということは
誰かに借りをつくること
生きていくということは
その借りを返してゆくこと
誰かに借りたら誰かに返そう
誰かにそうして貰ったように
誰かにそうしてあげよう
生きていくということは
誰かと手をつなぐこと
つないだ手のぬくもりを
忘れないでいること
めぐり逢い愛しあいやがて別れの日
その時に悔まないように
今日を明日を生きよう
人は一人では生きてゆけない
誰も一人では歩いてゆけない
生きているということは
誰かに借りをつくること
生きていくということは
その借りを返してゆくこと
誰かに借りたら誰かに返そう
誰かにそうして貰ったように
誰かにそうしてあげよう
誰かにそうしてあげよう
誰かにそうしてあげよう 』と、あります。
借りた恩は、誰かにそっと返してあげて下さい。
かけた迷惑は、みっきーさんが誰かに迷惑をかけられた時、すぐに赦してあげて下さい。
思い出している時だけ心が重く感じる
仏教では、心は無常(瞬間瞬間に変化する)と考えます。
「どうしたらこころがかるくなるのでしょうか?」
と質問されていますね。
ということは、あなたは、心が重いと感じており、しかも、ずっと重いままでちっとも軽くならない、と感じておられるのでしょうか。
しかし、そんなはずはありません。
心が重くなるのは、重くなるようなことを思い出している時だけです。
今から、酸っぱいレモンか梅干しの味を思い出してみてください。
どうぞ!………はい、ありがとうございます。
酸っぱい食べ物の味を考えている瞬間も、心が重かったでしょうか?
心は、同時にいくつものことをできませんから、別のことをしているときは重くないはずです。
しかし、あなたは、重くなった場面だけをつなげて編集して、重いシーンばかりだと思い込んでいるのです。
質問に対する私の回答は、「別のことを考えたりやってるときは、心が軽くなります」です。
余談ですが、心は、酸っぱい食べ物を念じただけで唾を分泌させるほど、肉体に影響力がありますね。
仏教は心を扱うスポーツみたいな面もあり、おもしろいです。
あなたの「こころ」さんにお伝えください。
「もうだまされないぞ!私はおまえを自在に変化させてみせるぞ!」
質問者からのお礼
大変ありがたいお言葉ありがとうございます。
私は、毎日毎日罪悪感に苛まれていて、精神科にも通院していました。
でも、変えられるのは自分ですよね。
時間をかけてでも、少しずつ良くなるようにしたいです。
ちなみに、恨みは逆恨みです。