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中絶手術

回答数回答 3
有り難し有り難し 64

悩んで悩んで悩んで、
第二子の中絶手術を受けました。

以前こちらで相談させていただいて、
絶対に産んだ方がいいと背中を押していただいたのに、
勇気がでませんでした。

職場にこれ以上迷惑をかけられない、
上の子がまだ小さいので親の反対など、
自分勝手な理由です。

お金はどうとでもなるし、
産んでも育てられる環境でした。

自分の弱さのせいで、
大切な一つの命を奪ってしまった。

後悔しても戻ってこないのに、
後悔ばかりしてしまいます。

手術前は、手術をして、私と旦那だけの心にしまっておいて、
仕事も復帰して気持ちを新たに頑張ろう!
と思っていました。
赤ちゃんを忘れるというわけではありません。

ですが、子供たちと関わる仕事です。
仕事のために中絶をしてしまったようなものなのに、
辞めたいと思ってしまいます。
でも、辞めたらそれは赤ちゃんへ申し訳ないような気もするし、
どうしたらいいかわかりません。

私は生きる資格がないと思います。
大好きな子供たちと関わる仕事をしていながら、
大事な息子がいながら、
中絶だなんて。
自分がどれだけのことをしてしまったか。

後悔しかありません。

まわりの目なんて気にしないで
産めばよかった。
命より大事なものなんてない、頭ではわかっていながらも
いま、生きているのが辛いです。

こんなことを思っていては、赤ちゃんに申し訳ないとも思います。

赤ちゃんのために、私は何ができるのでしょうか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

南無阿弥陀仏

前回のご相談と併せて拝読しました。

悩みに悩んで選択したご決断です。その責任を引き受けて生きていかねばなりません。生きるのに資格はいりません。私たちは生かされているのです。そして今回のお子様も私たち同様に生かされており、この世への誕生の機会を待っておったのでしょう。

このご縁をきちんと受け止めるため、供養の機会を設け、仏法にであっていただきたいと思います。
後悔を断つための供養ではありません。一生をかけて今回の責任を受け止めていくための供養です。

仏様の教えは人を裁きません。まだ作らぬ罪については抑止して嫌い、既に作った罪については許してくださいます。
「辛かっただろう、悲しかっただろう、情けなかっただろう。そのままおいで」と慈悲のこころで包んでくださいます。
生きている以上、他のいのちを奪うなど数々の罪を作り続ける私たちを、そのまま無条件に救ってくださいます。
だからこそ、私たちはその教えに触れた時に自らの有り様を恥じ、申し訳ないと頭が下がり、心から懺悔するのです。
罪がなくなるということでなく、許されるからこそ罪を自覚し、罪と向き合いながら生きていく私に出会わせていただくのです。

あるも様もすでにして、そのお子様との今回のご縁により「いのちの重さ・尊さ」を学び、「生かされるいのち」に気づかせてくださる仏法に出会う機会をいただいたのです。

後悔の闇に沈んでいくばかりでなく、後悔と共に生きていく覚悟を決めなければなりません。

生まれるかもしれなかったいのち
今、生かされているいのち
この世の縁尽きていったいのち

全てのいのちに手を合わせ、供養し、仏法にいのちの尊さを聞いていきましょう。いのちは本来私たちの思い通りになるものではないのです。現代という時代はその事実を見えなくする、人間を驕りたかぶらせるようなはたらきに溢れています。

出会うべきはたらきはそうしたものでなく、仏法です。生涯をかけてともに手を合わせて参りましょう。

南無阿弥陀仏

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有り難し
おきもち

個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

自然界、生物界のルールに抗う人間のエゴに向き合うべき事。

今後の第一子のお子さんの教育にも今のお子さんへの接し方にも「親の都合」が及んでいる可能性があります。
生命は親の意志で生まれて来ようとして生まれてくるのではありません。
その命の誕生のさせ方があるのです。
誕生した生命に対しても、親が親の都合やエゴで「こういうふうにしよう」という気持ちがあることで、その子供は生きながらに親のエゴの犠牲者になります。
中絶の事はとやかく申し上げません。
自然が自然として人間のエゴや人間の都合とは無関係に生命の働きそのものとして働いていることをよく考えてみてください。
草木、花一本にしてもあなたの意志とは無関係に存在しているのではないでしょうか。
あなたの意思とは無関係に、ということは、その生命の尊厳を認めてあげてください。
あなたのはじめてのお子さんに対しても、ご両親で、親のエゴ・都合を一切働かせないであげてください。
それがせめてもの、私がその子に代わってあなた達に伝えてあげられる言葉です。
全ての生命はその生命がその生命の主人公として生きています。
あなたの体の生命もあなたが主人公ではなくあなたの生命の働きが主人公です。
その生命を感じずに、自分意識というエゴを今後は増長させないように生きることです。
水子の供養とは、その生命に尊厳を見出し、自らが自らの人間性を見失わせないように生きることです。男性であれば精子一匹にも水子の精霊が宿る。
その生命の見い出しを引き出せればあなたはの中の本当の主人公が発動して、自然に手が合わさることでしょう。
これをご覧になられう方々が生命の尊さに目覚めてくだされば、きっとその子も浮かばれることでありましょう。亡き生命が生きる人を、子供を、大人をも導くという事はあるのです。合掌

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

菩提心生起

あるも様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

その水子さんに確かなるご仏縁がありますようにとの水子供養と共に、できれば、もしもその子がこれからも輪廻の迷苦にあるようならば、必ず自分がその子のみならず、全ての者たちを救えるような存在となれるようにとの強い意志(悟りへの菩提心)を持って、少しずつでも仏教を学び進めて頂けましたら有り難くに存じます。

三宝帰依・菩提心生起

すべての有情を救済しようという願いによって
仏陀・仏法・僧伽に
悟りの心髄に至るまで
私は帰依いたします

智慧と慈悲を持って精進し
すべての有情を利益するために
私は仏陀の御前に
完全なる菩提心を生起いたします

この虚空が存在する限り
有情が存在する限り
私も存在し続けて
有情の苦しみを滅することができますように

川口英俊 合掌

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おきもち

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