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比べること

回答数回答 2
有り難し有り難し 24

人と比べるのが癖です。
子供にもとても悪い影響だと思っていて、やめたい、気をつけなきゃ、と思うと空回りします。

収入、住まい、身なり、性格、家庭環境など…
よく子供の頃は色々なことを人と比べてました。
大人になり社会に出て働くようになり、おそらく自分が充実?満足?しているときは全く考えませんでした。

子供を産んで、他の家庭を知るようになってから
あぁ、うちはこういう感じなんだ…と思うように。
そこにも自分の家庭に不満があり、比べるんだと思います。
もちろん誰でも他人と住んでいるので多かれ少なかられ不満はあるとは思います。
ただ、人と比べる…その行為をやめたいんです。

でもやめ方がわかりません。
今までも同じような悩みを打ち明けてるのですが、なかなかしっくりした答えが見つからず。。
健康で、生きてることがしあわせ、と毎日感じられる人間になりたいです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

南無阿弥陀仏~比べる私を比べない仏様に知らされる

比べることをやめるのは無理です。

私は私を比べることで認識しているからです。オギャアと生まれてから母を認識し、それと比べて私を認識したように、私の前提が比べることなのです。私である部分と私でない部分を区切り比較し分別するのが私です。

そういう存在を仏教では凡夫(ぼんぶ)と言います。みな凡夫なのです。浄土真宗の宗祖親鸞聖人は

凡夫と言うのは「死ぬ瞬間に至るまで欲も多く、いかり、腹を立て、そねみ、ねたむこころが絶えることはない」とおっしゃります。

そんな私に残された道は

厳しい鍛錬で煩悩を断ち比較しない心を目指す道

この身このまま、比べるまま、苦しむまま、そのまま救われる道

のどちらかです。私は後者を選びます。前者の道は険しいです、私にはとても成り立ちません。

だから私は比べることをやめない。それで苦しむこともある。そのたびに南無阿弥陀仏とお念仏を申します。
南無阿弥陀仏とは「えらばず・きらわず・みすてず」の精神で私を救う阿弥陀仏という比べない仏様に帰依する言葉です。これは私が念仏を称えて比べなくなるのでなく、すでにして、比べる私の本質を見抜き、そのままおいでと仏が私を念じてくださったお言葉が私に届いていたということです。

「またいつもの様に比べる私であった」と思い知らされ、その知らされた私は比べなくなるのでなく、比べるままに救われていくことを喜ぶ。

比べない阿弥陀様の教えに出会うからこそ、私も比べないようにしたいと願う。しかし阿弥陀様はそんなことはおっしゃらない。「そのままでよい」とおっしゃるからこそ、私は比べる私を恥じ、比べるままに救われる私を喜ぶ。

比べることを私は離れられない。収入、住まい、身なり、性格、家庭環境…みんな「よりよいもの」が欲しい。そうして比べる私の思いで自ら苦しんでいる。

阿弥陀仏は私を比べない。しかし私は比べる、阿弥陀仏すらをも比べる。どこまでも比べる。死ぬまで比べる。

阿弥陀仏は比べる私を比べない様にするのでなく、比べるままに救う。だから私はただ念仏。念仏しても何も変わらない。変わらないことが申し訳ないやら、有難いやら…南無阿弥陀仏

比べることでは解決しない。しかし、比べなくもなれない。私が私でないものになるのでない。私は私のままに。比べる私を知らされ、生きていく。私を知らせる呼び声。

南無阿弥陀仏

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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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コインの裏表、私の生死

「死」を意識するのが一番だと思います。自分だって子供だって、いつ死ぬか分からない、いつ死んでもおかしくない。身近なものや人、自分があることも常では無いと心底感じたときに、私のほとんどの問題は問題でなくなると思います。

存在自体がありがたいです。有り難いことをすでにやってのけている。存在だけでは満足できないから、それ以上の、行動や、考えや、肩書きを求めてしまう。もっともっともっと、と。

死を意識して生きる。これ大事です。

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有り難し
おきもち

若輩者ですが、宜しくお願い致します。
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質問者からのお礼

存在自体がありがたい、すごく感じました。ありがとうございます

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