この問答を娑婆にも伝える
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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言葉を使う上で前提となるもの
でも褒められると嬉しいですよね?
正確には、悪口が嫌な気分にしているのではなくて、それを「解釈」して嫌な気分になっているのだとおもいます。
自分のわからない言語で悪口を言われても何をいってるのか伝わらないので嫌な気分になりません。相手の表情や身ぶり手振りなどを自分が「解釈」して嫌な気分になることはあるかもしれませんが。
曹洞宗を開かれた道元禅師は、元々の言葉の使い方を壊しまくっています。抜群に頭の良い方だったようですが、それゆえに、言葉というか、「解釈の根深さ」を知っていたのではと思います。みな無意識に自動操縦状態でやっている「解釈」に着目して疑問をもってもらうために、一般的には理解しづらい、いわいる難解な言葉の使い方をされたのだと思います。
物心つくぐらいから学んできた言語、そしてそれとセットになって頭の中で養われてきた解釈。この二つを、あらためて別々に見ることが必要ではないでしょうか。言語自体には客観性がありますが、「解釈」はほんと人それぞれです。解釈が人を幸せにもしますし不幸にもします。
言葉、言語は手段であって、事実ではありません。手段として使わなければいけない理由があるんです。
私たちは、この「言葉の魔法」に見事にかかってしまっているのだと思います。
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有り難し