感情と感性の違いとは?
先日、知人と議論になりました。
私は、「好き・嫌い・やりたい・やりたくないとかは、関係なく、やるべきことをきっちりとやりたい」って感じなので、どちらかと言えば、「感情排除・感情不要」だと思っています。
知人は、「何ごとも気分良くやりたいから、感情は大切だし、排除できるはずが無い」と言います。
そんな話をした帰り道、「わぁ、この置物、良いね~」「あ、梅が咲いてる」と周囲のいろんなものに反応しているのは私の方でした。
その時に、知人から「そんなにワーキャー言うのが、感情じゃないの?」って言われました。
そこで、質問です。
私のイメージする「感情と感性の違い」は・・・・。
好き嫌いなどの感情で気分が上下していると、落ち込んでいる時は風景を楽しむ余裕も無いだろうし、ウキウキしすぎて周囲が見えないのでは無いのかと思います。
気分が上下するような感情を排除することで、いつでも、同じように冷静に周囲を見渡して、いろんなものを感じることが出来る「感性」があるのではないかと思っています。
感情の波に翻弄されて、大嵐の海のように上下に揺れ動いていては何も見えないように。
穏やかな湖の上であれば、空も鳥も風ものんびりと感じることが出来るように。
感情を排除することで、より豊かな感性を磨くことが出来る。
感情を重視すると、感情だけに囚われてしまい感性を磨く余裕が無くなる。
感情に囚われない方が、いろんなことを楽しめると思うのですが、知人は「感情が大事。嫌なことは言わないで、伝えないで、見せないで、アドバイスなんて余計なお世話」と拒絶されてしまいます・・・。
感情と感性。この違いは何なのでしょうか?
私の考え方は、どうなのでしょうか?
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
う~ん
本来の「感情」及び「感性」とはどのように定義されるものなのかは置いといて、今ここですっぴん様とご友人がお話しするところでの「感情」「感性」について、第三者から意見させていただきますと
お二人の主張概要
すっぴん様:感情排除・感情不要。それにより感性が磨かれるので。
ご友人:感情重視。感情は排除できない。
私から見た現実
すっぴん様:ご自身の「感性」が否定され、それにより「感情」が揺らぎ、ここへ相談している。感情的にならないのであればご友人の主張をご友人の「感性」としてそのまま認めることができるでしょう。
ご友人:「感情が大事」と言いながら「嫌なことは言わないで、伝えないで、見せないで、」と言うのは「自分に都合の良い感情」が大事なのであり、「感情は排除できない。」と言いながらも都合の悪い感情は排除しようとしている。それがご友人の「感性」あるいは「感覚」と言ってもいいのでは?
まとめ
「感情」も「感性」もどっちも大事だし、どちらも排除できないね。お互いを認めて仲よくしよう。
です。
「言葉」をどう理解しているかって人それぞれなので、中々うまく伝わらなかったり誤解が生じたりしますよね。
もちろん私もすっぴん様の言う「感情」「感性」とは微妙に違うそれらの理解によって上記の内容を語っているのかもしれません。
それでも、言葉のキャッチボールをして耳を傾け続けるならば、「あ、この人はこういう風に考えていたんだ」と、「私が相手の主張をどう思うか」ではなく、「相手が相手の主張をどう思ってしているか」に気がつく瞬間があるのではないでしょうか。
感性とは視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚ですね。
感情とはその感性で得たものを心のフィルターを通したもの。
花を見ると視覚で綺麗な花が咲いていることを知ります。ここまでは感性です。
それを心のフィルターに通すと、好きだな、欲しいな、と思う。ここが感情です。
仏教では感情を抑えて感性に集中することが大切といわれます。例えば瞑想や坐禅はそれを目的にする場合もあります。
日頃私たちは感情に左右され過ぎて生きていますからとてもストレスが多いのですが、感情を抑えることでストレスから解放されるのです。
なので、あなたの言うことは間違いではありません。
しかし、だからと言って感情を捨てることができるでしょうか。むしろ感情がある方が人間らしいですよね。生きていて楽しいですよね。
おそらく仏教が目指す所の覚り(悟り)とは感情を捨てることではないと思います。
大切なことはどのような感情を持つかではないでしょうか。
汚れた悪い感情ではなく、浄く正しい感情です。
そのためには浄く正しい心を持つことです。
そのためには欲や怒りや無知や愚かさを抑えて、慈悲の心を持つことです。
その心のフィルターを通した感情が大切なのです。
というわけで、感性も感情も大切ですが、浄く正しい感情を持つことが大切ということです。
追記
感性に集中するのが大切というのは、あくまで普段振り回されている感情から自らを一時的に解き放つ為、感情を抑える為です。
その後で、正しい心で改めて物事を見ると、正しい感情を生むのです。
その為にも先ずは正しい心が大切なのです。
感情(受、愛、取、有)と感性(六処、触)と心(名識)の関係は法華経の仮城喩品第七の十二因縁の所にあります。詳しく知らないのですが、他のお経にもあると思います。超簡単に書けば、苦しみは感情から生じ、感情は感性から生じ、感性は心から生じ、心は無明(無知)から生じる。つまり真理(因縁)を知れば正しい心を生じ、正しい感情を生じ、苦しみが無くなるのです。
また、心の大切さは、法句経に多くあります。例えば、「物事は心に支配され、心によって成り立つ。もし浄らかな心で話したり行ったりするなら、楽がその人に付き従う。」(2句目)、など。
阿弥陀経にも正しい心を持つことを説く八聖道(八正道)の言葉が出てくるし、大切な事なので様々なお経に書いてると思いますよ。
質問者からのお礼
吉武文法さま、聖章さま、回答を頂きましてありがとうございます。
お二人の言葉、なるほど~という部分もあれば、う~んという部分もあり、大変参考になりました。
聖章さまにお聴きしたいのですが、「仏教では感情を抑えて感性に集中することが大切といわれます。」という部分を以前も、どこかで聴いたことがあります。それは、どのお経、教典に載っているのでしょうか?なんとなく、あやふやな理解なので、根本となる部分をぜひ、知りたいと思います。ぜひ、よろしくお願いします。
聖章さま、追記いただき、ありがとうございます。
法華経の仮城喩品第七、法句経、阿弥陀経、じっくりと勉強したいと思います。