因果応報について
過去の罪は消えません。
自分で蒔いた種は、自分で刈らなければいけないことも分かっています。
毎日お経を唱えると共に、過去の罪を懺悔しています。
今、自分にできる事を一生懸命することで、良い種を蒔く事で、運命を変える事ができるというのは本当でしょうか。
最近よく読んでいる、仏教に関した本のいくつかに、そう書いてありました。
また努力をしている姿を、仏さまは見ていて下さいますか。
そして、自分が救われたいと思いながら努力する事は、いけない事でしょうか。
まとまりの無い質問ですみません。
どうぞよろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
運命と縁起
何から救われたいのか、どう救われたいのか、という問題はありますが
それが世俗的事項であるならば
「自分が救われたいと思いながら努力する事」は必要な事でしょう。むしろ努力しなければ救われないと言っても過言ではないのかもしれません。
(世俗的事項でなく、無明煩悩という苦しみの根本的原因からの救いということであれば浄土真宗的に言うならこちらの努力は無効ですが)
しかし、その努力というものも実は自分の力だけでできるものではありません。
「努力しようと思う事」と「実際に努力できた事」は違うのです。
(そもそも思いがどこから浮かんできたのかという問題もありますが)思いを行動に移す時、それは様々なご縁(条件・環境・対象)が整って初めて実現します。
目の前の物を取ろうと思う事と、実際に取れた事は違う。実際に取れたという事は、取る瞬間に地震などなんのトラブルも起き「ない」というご縁が「ある」ことに支えられているのです。こうみると努力すらも全て「おかげ様」の世界であります。
さて、「努力をしている姿を、仏さまは見ていて下さいますか。」とのことですが、仏様は何か運命をコントロールするような絶対的な支配者であるわけではありません。
「うむ、この者は大変努力しておるしちょっと助けてやろう」
とかそんな話ではないのです。仏様とは上記のようないわゆる「縁起の法」という真理に目覚めた方です。仏様が支配しているのでなく、法によって成り立っているのがこの世界です。
そして「(前略)運命を変える事ができる」か、という問題ですが
「運命」とはこの先も全部決まってしまっているということ。一方、「縁起」とは、これまではこうだったがこれからは変えられるかもしれないということだと私は理解しております。
努力とは目的を達成するための正しい方法に努める行為です。無関係のものは努力とは言いません。
例えば、過去の罪を消すために読経をする(単に読むという行為)というだけで、努力になるとは私は思いませんが、そこにおっしゃる通り懺悔であったり、お経の意味を聞き私の罪について教えられるという事項が入ってくるならばそれは過去の罪という因とそれを消す(受け入れる、乗り越える)という果が結びつくことにもなるでしょう。
とにかく、目標とする果に向かい、きちんと関係のある因と縁をととのえていくことが肝要です。
自他共に皆が救われるための仏道を
ロバ美様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「自分が救われたいと思いながら努力する事」・・
仏教(特に大乗仏教)は何も自分一人だけが救われて、それで良しとするものではなく、自分も他も含めて、全ての者たちが救われるための悟りを得たいとして努力していくことが求められるものとなります。
自他共に皆が救われるための仏道をしっかりと歩んで参りたいものでございます。
三宝帰依・菩提心生起
すべての有情を救済しようという願いによって
仏陀・仏法・僧伽に
悟りの心髄に至るまで
私は帰依いたします
智慧と慈悲を持って精進し
すべての有情を利益するために
私は仏陀の御前に
完全なる菩提心を生起いたします
この虚空が存在する限り
有情が存在する限り
私も存在し続けて
有情の苦しみを滅することができますように
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
吉武文法さま
とても分かりやすい回答を、どうもありがとうございました。
たまたま図書館で借りて読んだ本に、同じような事が書いてあり(自分の行い次第で、運命は変わる云々…)、そうゆう事があるのか?と疑問に思い、質問させていただきました。
そうだとしたら、仏様がその様子を見ていて下さるのか?とも思ったのでした。
いろいろと勉強になります。
お忙しいなか、丁寧に回答して下さって、どうもありがとうございました。感謝いたします。