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今後は何をすればいいか

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有り難し有り難し 12

先月、副住職をしていた彼が自ら命をたちました。父親がお坊さんを志して住職になったものの、彼はその道を嫌がり後を継がなければ、勘当される。海外にバックパッカーをして自由に生きるか、寺に戻るかの選択を迫られて昨年に副住職についたようです。彼の性格は自己肯定感が低く、今までは鬱が入るとパーティーと呼ばれるクラブの様な場所で大麻を吸って気持ちを盛り上げる事もしていました。私と付き合ってからはそれに関わる人間関係さえも禁止にしました。亡くなる前は鬱がはいり耐えられないから安定剤をのんでいました。遠距離恋愛なので長電話でつらい、幸せにできない、薬のんだ、が始まったので私は電話に出ない拒否をしました。今までにも何度かこのような事はありましたが励まし、ぶつかり、会って回復するの繰り返しでした。話を聞いてくれ、薬も誤解なんだ、と30分前にも着信がありましたが5時半だったこともあり寝てしまいました。最後に追い詰めたのは私です。彼は本当にいい人なのでいつも感謝の気持ちを話し、LINEで届いた遺書も感謝、ずっと好きです。でした。彼のいないお盆は大変とのことで寺の手伝いにいきます、養女としてお父さんの寺を守りたい。とも思います。何かしたいけども相手の気持ちも考えず、今後も家に行くこと、連絡をとることはどうなのかと思います。そして私自身、9月の納骨までは目標を持っていますがそのあとは生きていく希望がありません。あちらの家と縁を切ることも辛いのです。心の中で南無阿弥陀物を唱え続ければ楽になるのか、苦しいことが苦しいと思わない智恵が沢山しりたいです。言葉とか


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたに責任はない

まず、どんッなに中の良い関係であっても、その人は自分ではありません。
どんッなに愛し合った関係であっても、いつかは先にどちらかが旅立ってしまいます。
どれッほど、相手を想っていても、それは自分ではなく、その人の命、その人の人生なのです。
ここで、あなたには精神的な独立をして頂きたいと思います。
仏教界とは出家の生き方です。
出家とは、何も頭を丸めることではなく、
「家」という人間のしがらみを象徴した、自他の自我、私的化、私有化、占有を離れる事です。
相手をいくら好きでも取り込んではいけません。
取り込まれてもいけません。
それが自我や吾我を離れる事、出家の本質です。
自我や吾我、マイマイセルフ、自分化、ワタクシナイズドする気持ちに向き合ってください。
一番自分を苦しめているのは、そこではないでしょうか。
どんなに大切なものでも、私は所有することができません。
昨日も大事にしていた茶器が割れましたが、この心が無かったために得失は生まれませんでした。人は死んで終わりではない。
終わりにしているのはあなたかもしれません。
終焉、終局、ピリオドはうってしまった人にとっては、本当に終わりになる。
転用、活用、継続、転生させるのです。
大工さんが木を使って、家を建てるように、木を殺したままではダメです。
彼を死なせてしまったままではダメです。
生あり活あり。
彼との思い出を活かし、これからも新しい活動を続けるべきです。
終わり、終焉、終局意識が貴女を止めるのです。
雲は終わりじゃなく雨になる。雨は川になる、川は終わりはなく海に至る。海に終わりはなく雲になる。彼の死も終わりはありません。あなたが生き続けているから、関わりが消えていないはずです。変わったのは関わりのありようだけです。彼は今も形を変えて姿を変えてあなたと関わっていきます。あなたの人生はあなたの人生。
共にあってもいい。別々であってもいいのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

ちーさん

悲しい思いの中にいられるとのこと、ご愁傷のことでしょう。
まず、あなたは亡くなった彼に対して申し訳ないなんて思う必要はないです。自ら命を絶ってしまった事はとても残念ですが、あなたに感謝していたと思いますよ。何度もあなたに救われたのではないでしょうか。そのことでご自分を責める事はしないでください。

今後は、お寺のとの関係を大切にされるのも一つの道ですが、そこは、自然に身を任せ、進んでいってください。
仏教は人を救う宗教だと思います。
仏道を学ぶ事は今後ちーさんが生きていく中でとても大切な力となるでしょう。

私は、禅宗の僧侶なので、坐禅をお勧めします。ただ座るだけではなく、そこに救われるものの見方があります。そこを学んで欲しいと思います。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
彼の両親からも感謝の言葉をいただきましたが、「お前が追い詰めたのだ」と責められた方が楽だった気もします。彼自身が1番後悔していると感じます。次の日の26日の仮通夜誤解には彼の携帯が死亡時刻にもどり、位牌の写真「私と行った雪山での写真」が決定して掲げられると、携帯の日付がその時の2月に戻ったのです。着信はできますが、履歴が残らないのです。最後の履歴は私から発信をしてやっとつながり母親から警察署にいる、死んだと告げられたものです。私に何かを伝えているとしか思えないのです。

私は強い人間だと思っていました。一週間で仕事に戻り仕事中は気持ちを張っています。子どもたちへの関わりも常に彼に見られているんだと思い、恥ずかしい対応はしていません。しかし、仕事が終わると毎日彼が「今日はどやった?」と電話で言ってくれることもない、ただ彼の携帯のLINEに私から今日1日の報告をして、何もない現実があるのです。今まで私は1人での行動や登山も平気でしたが、こんなにも人を愛し、愛された事は初めてでした。私の両親には付き合いを報告していなかったので、彼の事を少し話をすると否定的にとらえていました。全ては話せません。彼を悪く言われたくないので今は実家にも気軽にはいけない気持ちです。
彼の妹が数日前に男の子を出産しました。彼の字を一文字とっています。彼との初デートで行った寺で安産守りを買った事もあり、生まれかわってきたのかもしれません。終わりではないと言えるのかもしれません。彼の家族を大切に思うことも私の役割かもしれませんが、私とは家族ではありませんし私の両親は納骨以降は離れて欲しいのです。私の苦しみはいつなくなるのか、彼を忘れる事も怖い、毎日夜中まで苦しみ泣き疲れて眠りにつき、気を張って仕事に向かいます。
葬儀の日に寺のそうだいさんから「養女に来てもらえばいいのに…」と声をかけられた経緯もあり、私の人生を尽くそうと思いました。後継ぎがいません、妹2人も1人は結婚し、もう1人は海外に生きたい夢を話してきました。今回の事で親も応援をし兄も応援してくれたから、諦めたら悲しむだろう、でも家には誰もいない、母親は嫁を逃げ出し教師という道を選び家にはいない。大学生の妹も悩んでいました。彼の家族に寄り添って生きていきたい気持ちが強いのです。迷っています。
自分の道を選んでやりたいことは今はみつかりません。職場の不幸を背負った子どもたちに寄り添い辛さを共有しながら子ども達に明るい未来を抱かせる事をしなければいけませんが、明るい未来…今の私にはまだ見えそうにないのです。
丁寧に回答していただき感謝しています。涙が出ました。なんども読み返して行きたいとおもいます

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