hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

「赦す」ということについての質問

回答数回答 2
有り難し有り難し 56

宗教・宗派を超えて、聖職者・宗教指導者は異口同音に「人を赦せ」といいますよね。

私も、ここで別件で質問させていただいた際、御回答いただいた師から、やはり加害者を赦すようにと御指導いただきました。

理論上・理屈上、理解できますし、私に御指導していただいた師の御指導道理に努力します。

しかし・・・・・

ふと思いました。
犯罪・不正・いじめ・暴力・嫌がらせとかをやったヤカラを赦した際、これらのヤカラが、自身が課外をやった被害者から赦されたことによって、自分のやった悪行を自覚し、悔い改め、反省し、更生するのであれば、赦し甲斐があり、赦す意義があるというものでしょうが、反省もすることなく、まだ悪行を続けている場合は、いったいどうなんでしょうか?

仏陀は、赦しを受けても悪行を続けるガンダダ(『クモの糸」に登場する悪人」)みたいなヤカラを、どう御覧になっているのでしょうか?

以前別件で相談させていただいた、私に三年間にわたって嫌がらせ・侮辱し続けたヤカラは、いまだに私に対して一切謝罪・弁解・弁明も30年経ってもしてきませんが。

私の件はさておき、赦してやった者が、悪行を続けているということを、僧侶の師の各位は、仏教的・宗教家的見地から、いかがご覧になられているのでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の執着をゆるめる事が赦し

相手を赦すのではなく、相手を問題にしている自分の心をゆるめる事が赦しです。
自分の執着をゆるめる事なのです。
あなたがたった今も「アイツゆるせねえ」と思っている間にも、彼は何をしているでしょうか?
あなたの目の前にはいません。
あなたがの目の前にいてもあなたが思っていることとは別の様子で活動しています。
人間究極的には、自分がこの自分を生きる他に無いのです。
相手の事をとやかくガタガタ(我他我他)言っても、結局問題にしているのが自分だっていう所に目を向けてみてください。
それって、虚しいでしょう。
相手がその人でなくても、誰であっても、人の行動ばかりに目を向けていたら自分が疎かになります。
どんなに悪行を重ねた人間でも、本人が気づかなければ刑務所に入っても変わりません。
変わったからって一生ストーカーみたいにその人の事を付きまとったって虚しいだけです。
だから自分が自分を本当に生きる他に無いのです。
人が赦すの赦さないの言ったって人間の上だけの事。
天地の赦しに目覚めた方がよいでしょう。
天地の赦し、神仏の赦しとは、人間が罪を赦すという事ではない。
赦す赦さない無しに『すでにかくある』という大いなる世界なのです。
だから自分の執着をゆるめる事が『すでにそうある』ことをその通りに赦すことになるのです。
ゆえにLET IT BE それをそのままに
ゆえにLET IT GOそれをGOさせる
ゆえにTHIS IS ITそれはただそれ という放下の心が世界が悟りの心に通ずるのです。
放下とは相手を放下することではない。
自分の自我、我見、許せないという心をおこす自我意識そのものを放下するのである。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

赦すのは被害者の平安のため。法律上の罰は妨げない。

怒りは悩み苦しみストレスの原因なので、怒りを手放し赦すほうが被害者にとっては幸せになれます。

一方、被害者が「赦す」と言っても、加害者が世間の法律で決まった罰を受けることは、仕方ないのです。
再発防止策としてどんな罰を用意するかは、その時代の世俗社会(国)が決めればよいのであり、仏教には関係ありません。
仮に被害者と加害者が和解してさらに友情まで芽生えたときに加害者が逮捕されたら、
親友になった被害者は加害者のために「かわいそうに」と涙するかもしれません。
(仏教徒がめざすのはそんな被害者になること)

で、罰を受けても受けなくても、加害者自身反省をしなかった場合は、
その報いは加害者に必ず帰ってきて、加害者は苦しむことになります。
反省していないということは、煩悩(欲・怒り・怠け・プライド等)が強いままということであり、
煩悩が強いとその人自身が苦しいからです。

仏教は、悩み苦しみの原因である煩悩を制御したりなくしたりして、悩み苦しみを制御したりなくしたりする教え。
反省しない加害者は、悩み苦しみを制御したりなくしたりする能力がないため苦しむ、かわいそうな愚か者なのです。
ちなみに、もしもジャイアン以外の人が全員悟っていて、ジャイアンにイジメられても全然平気で幸せだったら、ジャイアンは蚊程度の存在です。
ジャイアンをどうするかより、殴られても幸せなのび太を作る秘密道具が仏教です。

{{count}}
有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

丹下覚元師

有難うございました。
質問登校してみて正解でした。

私の件に関して、以前も貴師からご指導を頂きましたが、やはり相談質問はしてみるものですね。

ただ、世間では、何度も犯罪不正を行うヤカラは多々いるし、警察・司法佐多にまで行かなくても、いじめなどを続けて楽しんでいるヤカラも多々蔓延っているので、これはどういうことなのか、犯罪不正・いじめ悪行をやらかすヤカラに対しては、許しではなく厳罰・制裁・徹底処罰で応じなければ、また新たな被害者が出てくるのではないか、と思ったからです。

しかし、丹下師の御指導は、私ごとき浅学な雑魚俗人でも理解しやすいです。

有難うございました。

願誉浄史師

ありがとうございました。

貴師の御指導にも納得でき、頭に刻んでおきます。

ただ、やはり実質問題として、程度の差は違えど、被害者が反省・謝罪しない加害者を許すということは、かなり至難の業ではないかと存じます。

私も、早く貴師や丹下師の御指導のような人を無条件で許せる人間になりたいと思っております。

有難うございました。

煩悩スッキリコラムまとめ