僧侶との過去に苦しんでいます
精神的苦痛から、婚約していた僧侶と別れ、今も行き場の無い憤りに苦しんでいます。
深い傷に苦しんでいた私を救ってくれたのが出会いのきっかけです。出会った頃の彼は本当に優しく、仏様のような人だと思いました。在家の私は寺へ嫁ぐ不安もありましたが、そんな彼だからこそ迷いもなく、親も説得して決心を固めました。
その後、彼はまるで別人のように変わりました。変わったのではなく「ただ本質が露わになっただけ」と、彼自身言っていました。
プロポーズ時に彼が綴った誓いの言葉の数々は即放棄され、弱音も愚痴も全て求める雛形どおり受け止め労うことを強要し、強烈な人格否定されたり、過去を執拗に責め続けられたり、結婚という大きな決断も、二度も無かったことにされたり…。とにかく「俺のものさし」に合わせろと、私に変化を求め続けました。
でも彼にとっては、傷つけられて辛いのは自分、間違っているのも悪いのも常に私です。彼のものさしで見ることの出来ない私が、傲慢で狭量な人間。別れた後も「私に傷つけられた」と周囲に話していると知りました。
常に阿弥陀様を背にしていると言いながら、目の前の彼は自己愛と正当性の塊でした。
ですが僧侶の彼は僧侶的で、様々な活動をしているためメディアに出ることも多く、世間的評判も高く、人々から称賛されます。皆、彼の纏う誠実そうな雰囲気と容姿に、人格者に違いないと思うそうです。今も彼は何事も無かったかのように僧侶をして…。私が精神的な病と戦っていることは何も知りません。
一度は苦しみから救われたはずの信頼していた人に深く傷つけられ、もう何を信じればよいのかわかりません。これまで、毎日苦悩し、自分自身と向き合い、ありのままの彼を受け止め、彼の求める阿弥陀様のような人間に近づけるよう、私なりに必死で努力をしてきました。深い愛情があったから。彼には全く満たされなかったとしても。見えない努力も愛情も何一つ意味をなさなかったことが、ただ虚しくてやるせない。
今は、彼へのご恩や感謝の念が憎しみに変わってしまうことが怖いです。
僧侶も人間だというのは理解できますが、僧侶の時と本質に大きな乖離があっても、何の呵責も無いのでしょうか?
僧侶って何なのですか?
人を深く傷つけても、阿弥陀様はなんでも許してくれるのでしょうか?…
同じ僧侶の方はどう感じられるのかをお聞きしたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
DV加害者の典型がその僧侶です
結婚する前に、気づいてよかったですね。
彼は典型的なDV加害者タイプです。外面と内面が極点に違う人は、外面を取り繕うのに内心で疲れるので、自分が本質をさらけ出せる誰かにはとことん酷いことをします。被害者(奥さんなど)が耐え切れず訴え出ても、社会的な地位やプラス「仏様のような」外面と弁舌で上手に自己弁護するので、被害者が悪者にされてしまうことも多いです。
人間は仏様ではないのに、お坊さんは仏様のように行動することを要求され、期待されるので、外面を仏様のように繕うことになります。人格者っぽくふるまう方が都合がいいし、それらしい肩書を持っていると高僧っぽくみられることになります。メディアに取り上げられたり、肩書を持ったりするとますます都合がよくなります。そういう立場に「なりたい」とはいいませんが、こっそり裏で手をまわしてなってしまうので余計に「信じられて」しまいます。私の仲人夫婦もまさにそんな人間たち(ともにお寺生まれの住職夫妻)ですので、あなたのおっしゃっていることは、たいへんよく分かります。彼らも「仏様のような」外面を持っていますし、ボランティア活動に熱心で、そうした肩書を持ちたがります。
考えようによっては、早く気付かれて(早く相手が本性をあらわにして)よかったのかもしれませんね。過去はかえられないので、これを機会に外面と内面の違いついて学べてよかったと思ってください。過去を後悔の種とせず、明日を生きる参考資料にしてください。
お坊さんには、彼のような人がたくさんいます。しかし、一見するとダサいかもしらないけど真にお坊さんらしい、立派な宗教者も(少数ながら!)おいでになります。このことだけは信じていただき、教えそのものまで嫌悪なさることがないよう願ってやみません。
僧侶とは生き方そのもの
僧侶とは生き方だと思います。法衣を身にまとったときだけ僧侶というわけではありません。
その、彼とあなたはお互いに自分を押し付け合ってきたのでしょう。自分の所有物のように、自分の持っている型にはめたかったのでしょう。
しかし、人はそのようでは、うまくいきません。その彼は未熟な僧侶であったことは間違えないでしょう。あなたも未熟であった。それだけです。
お互いに協力し高め合い、愛し合うかんけいでなくてはなりません。
しかし、それも過去。昨日の彼もあなたももういません。過去に引きずられる事なく、思考に引きずられることなく、今を生きてください。良いご縁に巡り会えるといいですね。
愚者の自覚を(浄土宗21世紀劈頭宣言)
ご質問、拝読いたしました。その方は恐らくお寺に生まれ、周囲からも期待され、それに応えようと(子どもっぽくも)一生懸命、そのような「あるべき」姿を追求してきたのでしょうね。しかし、「仏様に連なる者としての僧侶」であることは(今の)自分の本質ではない、と気づいた。そこまでは、イイコトだと思います。なぜかというと、あなたと出会うことで「”僧侶らしくあれ”という期待に応え続けている凡夫」に過ぎないと暴露されてしまったからです。
この感覚、私にも分かります。多分、言葉にすれば「洗脳されながら」育ってきたのですから。「お寺の子らしく振る舞う」と、皆さん喜ばれるのです。親も、周りの方々も。
昔は一人前になるために、「暖かい」住処を離れて修行に出て、コテンパンにされ、ダメだダメだと言われ、そこから改めて「僧侶になる」途があったのでしょう。しかし、現代それはありません。特に浄土系は「自分って、トコトン駄目な奴だ・無力だ」を思い知らないと、「阿弥陀様にお縋(すが)りする」などという浮き世離れした発想にはならないのに、その出発点を通りにくくなっているのです。
なので、あなたとの挫折が、もしかすると彼の(真の)僧侶としての出発点になるかも知れないと考えることはできないでしょうか。「自分をあれだけ愛してくれた女性を、幸せにできなかった。苦しめてしまった。」彼の信仰の母親に、あなたがなる可能性はあると思うのです。
また、あなたに阿弥陀様と同じ事を求めるのも無理があります。「あなたのお母さんじゃないのよ、ましてや仏様じゃないのよ!」ということです。
真宗ではどうか分かりませんが、浄土宗では誦経の前に必ず「懺悔偈」が入ります。自分が駄目な奴だと思い知れ。その後でしか、お経を読めなくなっているのです。
殺人鬼でも、お釈迦様は弟子にした
人格的に未熟だからこそ仏教を頼って修行する必要があるので、僧侶だから完璧な人格者というわけではありません。
欲・怒り・怠け・プライドは僧侶にもあります。
さて、あなたの平安のためには、あなた自身が怒り・恨みを手放すほうがよいのです。
別れた彼氏が僧侶かどうかに限らず、すでに別れたんだから忘れてしまったほうがよいのです。
質問者からのお礼
邦元様
ご回答ありがとうございます。
彼自身、「僧侶とは生き様」「行動のベースに慈悲の心があるのが僧侶」などと言っていました。その一方で、「僧侶の時は出来るが素の時は出来ない」「自分のこととなると別の話だ」と言っていました。そのたびに、その大きな乖離に苦しみました。
それを、人間らしくて微笑ましいと受け止めるには、私は傷つき過ぎました。
本質では、身近な人の苦しみに目を向けられない人が、真に人々の苦しみに寄り添えるのか、心を救えるのか、それはずっと疑問です。
私は仏教徒ではないので、一切関わらずにいれば済むのかもしれませんが、
でもこれまで長いこと、全力で、自分と、彼と向き合ってきたので、簡単に過去に出来ない感情との戦いです。
目覚めた時から眠りにつく直前まで、2人のことを考える毎日でした。無碍に他言出来ないぶん、ひたすら文字に綴ったり、内に込めて。それだけ、大切に思っていました。どうしようもない人だと思いながらも。
彼も私も未熟だった。確かにそのとおりだと思います。出会った時のご恩の深さから、気づかぬところで私は彼に、聖職者的な本質を期待していたのかもしれません。
今は、せめてほんの少しでも、彼の中で思うところがあればと願います。
全力で愛した人のことを、ただ酷い人間と思うのはとても悲しいので。
ありがとうございます。
藤岡様
ご回答ありがとうございます。
私の周囲は宗教とは無縁の人がほとんどで、同じような経験をした人がいたいため、よく分かりますと言って下さることが、本当に心救われます。
彼は僧侶と本質は違うと言いながら、暴力的な自分が表出してしまうのは私のせいだと常に言っていました。こうなってしまうのは私に原因があると。
そこまでにさせてすまなかった、という解釈はできないのか?と…。
私は藤岡様のおっしゃるように、外の世界で僧侶らしい振る舞いをしている分、私の前だけ本質を剥き出しにしているんだと思っていましたし、人間である以上、どこかでありのままの自分をさらけ出せる場は必要だと、そんな彼でも受け入れる努力はしていました。
彼の甘えや愚痴を、彼の求めるとおりの受け止め方で私が受け止めた時は、彼も「こんな部分をさらけ出せるのは私だけ」と言います。
でも、私も人間なので、何もかもを彼のものさしで見ることはできません。
私が彼の求めに反する反応をすると、とたんに、ありのままの自分を受け止めてくれない。理解してくれない人、となります。自分の思いどおりにならないことに、どこまでも満たされないのです。
ありのままの私を受け止め、愛するという当初の言葉は一瞬で消え去り、ありのままの自分を受け止めさせることへの執念は凄まじいものでした。
阿弥陀様は何でも受け止めてくれるのに、なぜ出来ないのか?と言われているような思いにかられるようになり、仏教(浄土真宗)の解釈を恨むこともありました。
世の中には、真に素晴らしい僧侶もいる。そのお言葉にも救われます。
そうであって欲しいと心から思います。
今はとにかく過去を振り返らず、一日一日を前を向いて過ごすのみですね。
ありがとうございました。
佐藤様
ご回答ありがとうございます。
おっしゃるとおり、育ってきた環境による部分は大きいと思います。長男ですし、お父様が立派な布教使なので、特殊な世界で育ってきた人特有のプレッシャーもプライドも大きいと思っていました。それに信仰心は強い僧侶だったので、彼の本質形成に、仏教が大きく関わってるであろうことも、十分理解していました。
私には理解し得ない、彼の本質のルーツを少しでも理解できればと浄土真宗の本もたくさん読みました。
でもどんな努力をしても、頑なな心に近づくことが出来なかったんだと思います。
最後まで、「私に傷つけられた」と言っていると聞いてショックでしたが、
時間がかかっても、この別れが彼にとって少しでも意味のあることであればと願います。
ありがとうございました。