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厄除けについて

回答数回答 2
有り難し有り難し 16

夫が厄年の為、インターネットで探したお寺に厄除けを受けに行って来ました。

行ってみると、小ぶりの体育館?の様な建物で、中に入ると本堂はありましたが…
お墓もなく、修業する為の施設の様でした

金額も、電話予約の際には1万件だったのが3万円と言われたり、名前を間違えたり。

これで、本当に厄除けになったのか不安です
別のお寺で再度お願いした方がいいでしょうか?

厄払いは、神社
厄除けは、お寺と聞いた事があり、年始ではないのでお寺で厄除けと思った次第ですが、この認識は正しいでしょうか?

檀家になっているお寺はありますが、厄除けの様な事をしている様子はありません(HPで確認)


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

厄年に関連するのは神道です

お寺で厄年除けも厄年のお払いもありません。厄年という考え方は神道にのみあるものです。仏教では厄年も日の良し悪しも方角の良し悪しも何にもありません。

考えてみてください。いま生きていることは自分の力で生きているのではなく、生命が与えられその与えられたいのちを生かされていることを生きているというのでしょう。そのかけがえのない人生に、悪い年月日を作るなんておかしいし、悲しくありませんか。仏教ではこう考えるので、厄年のお祓いも厄除けも本来はありません。気休め、安心ということまでは否定しませんが。

ここまででお答えは終わります。後はよければお読みください。ハワイでは厄年のパーティをお寺で行います。戦時中、神道の神社が破壊されたこと、誰かが厄年という行事を復活させたことが重なって、お寺で行うようになったのです。たいへんなどんちゃん騒ぎをするそうです。こうした特殊事情による例外はありますが、お寺と厄年は関係ありません。

重ねて言いますが、厄年が習慣化している地域では世間的に厄払いを行わないわけにはいきませんね。また、それをしないと気分がわるいということはあるでしょう。その場合は、気休めであるとお考えになってください。

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個別相談可能
私はお坊さんといっても、ひと様に何か答えらしいものを提示できるような立派な者ではありません。むしろその逆で、しょっちゅう周りの方々にお尋ねして、教えてもらって生きています。質問について考え、答えようと悩むことで私自身が学び、僧侶として少しでも成長していけたら、と思っています。 youtube法話を始めました。私の名前ですぐ見つけていただきます。
本堂までWi-Fiの電波が届かないので、お内仏(家のお仏壇)のお部屋でお話します。

心の厄を払う

お寺も選ぶ時代です。
うちに来れば心の底から厄を払って差し上げますが、まぁ遠いですから。(^<^)
災厄って、本当に祓うことができます。
うちの禅会に来てみませんか。
あなたが物事の真相を知ることで祈祷以上の効果がある厄払いとなります。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました

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