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仏性について

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精神疾患や人格障害などで責任転嫁や攻撃をしてくる人と信頼関係を構築しなければならない場合、お坊さんはどのような姿勢で関わりますか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

まず、あなたの質問をちょっとご自身で読み直してみると、答えが分かると思います。
Q「精神疾患や人格障害などで責任転嫁や攻撃をしてくる人と信頼関係を構築しなければならない場合、お坊さんはどのような姿勢で関わりますか?」

精神疾患
人格障害
責任転嫁
攻撃をしてくる人

「そういう特殊な人」だと思っていると、ダメです。
最初から、ラベル、レッテルを貼ってるから、相手も敏感に察しますよ。
同じ人間ですよ。逆にあなたが、そういう人間だと私から思われて特殊扱いされたら、あなたはわたしを嫌いになると思います。尊厳を損ねられた気持になると思いませんか?
そんな相手に信頼なんかできやしませんよね?(^<^)
お互い只の人と只の人なんです。
ラベルや肩書なんて絶対に持ってきちゃいけない。
私だってお坊さんだとみられるのは好きではありません。
丹下個人として接してくれる人が信頼関係を構築している人です。
人間肩書きで接する人ってどこかよそよそしさがぬぐえないものです。
只の人になって、ただの人とし接してください。尊厳を重んじて差し上げてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

そういう人だと認識して付き合います

「この人はそういう性格の人だ」と知っていれば、それに沿った付き合いをします。
信頼関係で繋がることができる相手は人生にそうたくさんいません。
だから信頼関係ではなく人間関係を構築しましょう。
自分と合わない人とは親しくなれませんが、合わせてフランクに付き合うことはできます。
それは自分にとってストレスですが、相手に合わせず憎しみ合うストレスよりは楽だと私は思っています。

この娑婆という世界は嫌な人とも付き合わなければいけない世界です。
そのことを、お釈迦様は「怨憎会苦」という苦しみだとお説きくださいました。
人間生活をおくるならば必ずこの苦にであいます。
逃れることは大変難しいものです。
娑婆とはそういうもんだと知ることが大切です。

だからこそ、この娑婆から浄土という世界へ解脱しましょうという仏教があるのです。
仏法を聞いて仏様の道を歩ましょう。

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有り難し
おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学の身でありますが、多くの方のお支えの中で日々精進しております。 仏教には、「私が知らないことを仏様から聞かせて頂く」という大切な側面があります。 聞かせて頂くのは、仏様の智慧であります。 今まで仏様のご縁が遠いと感じておられた方が、少しでも仏法に触れるご縁になれば幸いです。

質問者からのお礼

釈心誓様
ご回答ありがとうございました。
仰る通り、信頼関係をきずくのは難しいことですね。仕事でそのような方の支援をさせていただくときに、信頼関係を築かないと成り立たないことがあるので、お尋ねしました。
でも、信頼関係を築こうなんていう努力などしないほうがいいのかもしれません。
そういう人だと思ってそれなりに関わるしかないのかもしれません。
ありがとうございました。

丹下様
ご回答ありがとうございました。
レッテル貼りは尊厳を蔑ろにするのかもしれません。
しかし、暴言暴力があるという事前情報があれば前もって対処を考えておかなければ自分が危険になりますし、虐待などの見落としに繋がるかもしれません。
綺麗事だけで世の中が成り立つのであれば、そのような危険のない山や寺で一生を過ごせるのであれば、それでいいのかもしれません。
ありがとうございました。

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