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棍棒でメッタメタに殴り潰してやりたい思い

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家庭内暴力だった父親が許せず怒りが込み上げてくる事が未だにあり辛いです。

ふとした時に、昔の事を思い出してしまい、その時に思うのは、棍棒のような物で何度も何度も殴り潰してやりたいという怒りの気持ちです。
良くない表現(思い)とは思いますが、言葉に出来るだけマシになったと思います(以前はそれが自分を傷つける方向へ向かい頭を怪我したり目を潰しそうになり…今は自分を大切にしようと言ってくれる人が支えで助かってますが、今後もそうならないか不安あります)

母親が離婚もせずにその父へ従属してきた(今も)事も、更に怒りというか、矛盾、理不尽、のような悔しい気持ちを増幅させます。

家庭を持ち別居の身にはなったものの、全く縁を切れる訳でもなく
「父の暴れ」は都会なら警察に通報されるレベルでしたが、実家の地域は隣りの家まで声も届かぬ距離の超田舎だったため、外ヅラの良い父が「悪者」になる事はありませんでした。今も。

父は永遠に裁かれることもなく、私はその親の子として生きなくてはならない。
復讐を果たせない悔しい気持ちをどうしたら良いのか、怒りが込み上げて来た時に、やはり何か復讐?したいと思います。あのクソじじい、憎たらしい。。
また汚い言葉を失礼しました。。あの時本当に死闘しておけば違ったのかも知れない。。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ボッコボッコに。 こん棒よりめん棒がよろし

うちであまり使っていない「こん棒」じゃないんだけど「めん棒」(麵棒)がありますの。
ま、こん棒みたいなもんですわ。
使いこなせると結構便利です。使い勝手がいいと思いますのでよろしかったら差し上げます。
これでもかっ!というくらいボッコボッコにしましょう。ボッコボッコの仕方は後述します。
最近は、食パンをめん棒で伸ばして平たくしてみました。
面積が広がって薄生地になります。ピザ生地みたく具をのっけて食べてみてください。
これ、結構ウマいのですよ。高い金払ってピザ買う必要が無くなりました。
乾燥してきたパンの方が焼くときはサクサクになりやすいです。
原型とどめないくらい平べったくするのですわ。
ありったけの思いと積年の気持ちを込めて「おりゃー、ひらべったくなりやがれっ。」
そんな矢先にウチのお寺から歩いて1分チョイの所にピザ屋とケンタが出来ましてねぇ。(-_-メ)
今月末オープンだそうです。ピザお店から持って帰ると半額だそうで。買ってきてくれたら、あげます、めん棒。でもピザってつまり原価は大したことないのでしょうね。別のピザ屋でかにピザとか頼んだことありますが、驚くほど乗ってなかったです、カニ。家でカニ缶でやった方が倍安いですわ、食パンだけど。
あと、めん棒の上手な活用法なのですが、普通に売ってる蕎麦とかラーメンがありますでしょ。
それをまな板とかキレイに拭いた机の上などで平べったくするんですよ。
すると、平打ち麵になります。原型とどめないくらいに平べったくしましょう。
「おりゃー、平べったくなりやがれッ。」
食感が変わってゆで時間も少なくなって済みますのよ。
さてボッコボッコの仕方ですが、字で記すと「没己没己」です。
己を没するのです。
これを読んでいた時に親父のことなんざ忘れて「めん棒」が思い浮かばれていたはずです。
人間は瞬時瞬時にボッコボッコなのです。
小さなことなんざ忘れなさい。
自分なんてもんは元々ありゃしません。
いつまでも前のことを握って、こうだと掴んでいるから麵が伸びてしまうしチーズも固まってしまうのですよ。
あなたは、いつまで前のものを握って縛られていてはいけない。
そのこん棒なり綿棒でボッコボッコ(没己)にするべきはアンタ自身です。
こん棒もめん棒もあなた自身の象徴。使い方を間違うな、柔軟であれ、自由に使いこなせという仏からのメッセージですよ。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元様
お礼が遅くなりましてすみません。
使い方、使いこなし、その通りですね。
こん棒…短気/めん棒…気長
(自分自身のメモとして)
貴重なアドバイスをありがとうございました。

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