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手遅れの人生、せめて憂さ晴らししたいが、他にやることは?

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有り難し有り難し 22

利己的な質問です。
最近、何の罪もない子供を殺したくなります。なぜかというと、それが自分に可能な、もっとも世の中を不幸にできる方法だと思うからです。

値打ちのない人生でした。
幼少期は日常的な虐待。親が相手の親に嫌われて、友達もいませんでした。今、故郷に帰っても、思い出話できる人はいません。
中学生の頃に、激化した家庭内暴力の末、両親は離婚。電灯もつかない部屋で貧乏生活をしました。
それでも若い頃は人生をなんとかしたかったので、一応は頑張りました。一流大学にも合格し、仕事も、土日を潰して学んだおかげで、搾取されるばかりの派遣社員になった今でも食うには困りません。
ただ、もともと虚弱だった体はもう、喜びを知りません。苦痛だけがあります。

気がつくと、大切なものは何もありませんでした。友人、家族、恋人、誇れる仕事、実績や思い出。皆無です。
人並みにそれらを大事にしようとして、随分痛い目をみました。時間とお金と健康を犠牲にして、裏切り、搾取が一通り済んで、気付くと周囲には何もありません。
これが自分の本当の姿だったんだ、とわかりました。

もうこの年齢です。未来もありません。富も地位も名誉も愛情も。
人生の敗北はもう確定しました。仮に今から宝くじに当選しても、大して意味がないくらいに。
代わりに恨みだけは山ほどあります。ここに至って気付きました。

私は三つの誤りを犯しました。
生まれたこと。自殺しなかったこと。なんとかしようとしたこと。
努力しようがなんだろうが、私は出来損ないだったのです。

そして、私はこの世界に何の責任もありません。
大事なものは何も残っていない、でもなんとなく腹が立つ、であれば面白半分に壊しても構わないのではないか?
そもそも私はもう破滅するしかないのだから、私にとっては世界の終末と同じです。
被害者面などしません。弱いのが悪いのです。なら、私に傷つけられる誰かがいても、その本人が悪いだけでしょう。

あとは苦しみながらゆっくり死んでいくだけ。なら最後に自由を満喫して、思う存分命を嘲って、ちょっとだけサッパリしていこうと思っています。
ただ、他にもっといいプランがありますでしょうか? あればご教示ください。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

もうちょっと生きて周囲を見返してやりましょう…。

 現在の御心境、又これまで歩まれた人生をお察し致します。いえ、善人面した私などには到底理解出来ない、分かるはずのないことなのかも知れませんね。
 そのように他人なんて、あなたの境涯は理解出来ません。そんな第三者に危害加えたところで、全く得るものはありません。何だかよく知らない他人が傷付き、そしてあなた自身が余計に傷付くだけです。
 あなたはもう人生を諦めましたか? ひっそり自ら命断ちますか? それで良いのですか? 繰り返しますが、世間への復讐なんて、暴力では叶いませんよ。
 本当の復讐は見返してやることでしょう。生きることで、働くことで…。
 「そんなこと出来るわけない」と決め付けたら、絶対出来ません。空しく命終わるだけです。…たとえ他人を傷付けて、そしてあなたが一応の目的遂げて その命終わったとして、それこそ世間からは「クズが一人消えて、せいせいした」と言われて終わりです。いえ、殆どの人はそんなことすら思わない、あなたの死についても知らない、何も感じないかも知れません。
 無性に腹立ってきませんか? 
 ならば生きて復讐するのです。しっかりと生きて復讐するのです。
 30代なんてまだまだ人生これからです…時間はタップリあるのです。本当です。
 どう生きるか…家族に真剣に向き合いましょう。そしてまた自分に真剣に向き合いましょう。
 少なくともどうしたって自分からは逃げられないのです。ならば自分を見つめましょう。じっと…時間掛けて…悪いところ、良いところ探しましょう。そして少なくとも今まで頑張って生きてきた自分を誉めてあげましょう。自分が誉めないで誰が誉めてくれますか…みんな内心で自分を誉めているんですよ。だから生きていられるのです。
 ただ、やっぱり自分が正しいか、自分の人生はこれで良いのかと悩むことは多いと思います。
 その答えを下さるのが仏様です。浄土真宗では「阿弥陀仏にこの身をお任せすることで、おすくいに出遇わせて頂くのだ」と説きます。
 宗派はご自由です。どの宗派であっても仏教は宗教であって、本当の生き方を明かしてくれる教えであることは間違いありません。
 死ぬのはいつでも出来ます。もうちょっと生きて、しっかりと生きて周囲を見返してやりましょうよ! 及ばずながら、このハスノハにて私もお助け致しますよ…。
※回答への質問は別途で願います(字数制限の為)
 

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有り難し
おきもち

得難い稀有貴重なる人身

御礼も拝見させて頂きました。

何度か回答を推敲しては消し、推敲しては消しと繰り返しました・・

結果、「憎悪に、仏教ではどう対処しますか?」・・ここに焦点を当てさせて頂いてお答えをさせて頂きたくに・・すみません・・

憎悪など煩悩が生じる最大の原因を仏教では、「無明」(根本的無知)と考えます。

無明がゆえに様々な煩悩を起こしてしまい、そして、悪い行いを重ねて、悪業を積むことにより、迷い苦しみを輪廻し続けてしまう・・

仏教では、仏道を修することによって、無明を対治していくことで、悟りを目指すこととなります。

無明の対治のためには、大きく智慧と福徳の二つの資糧を積んでいく必要があります。

そして、人はその二つの資糧を積むための最適な状態・環境であるとして、有り難くにも得たる人身を何とかして仏道に活かしたいものとも考えます。

しかし、真に悟り・涅槃・成仏へと至るためには、実は「三大阿僧祇劫」(一阿僧祇の正確な数字には諸説あり、10の31乗~10の104乗)という、とてつもない時間にわたる仏道修行が必要と考えられています。

ですから、上記で考えると、ほんの僅か微々たるこの一生の修行で、何の意味があるのかとなってしまいます・・

それでも積まないよりかは・・と思いますが、どうして「得難い稀有貴重なる人身を」と仏教で言うのか・・拙生なりに更に調べること幾星霜・・

その理由がようやく最近になり、分かりました。

この一生のうちでも実は成仏できる可能性があるのです。

その修行ができるのも、実は、人身だからこそとなります。その方法が説かれてあるのが、密教となります。

三大阿僧祇劫も掛かる悟りへと至るために必要な資糧を、今生、わずかな期間でどう積むのか。その理論が解き明かされていますのが、後期インド密教における無上瑜伽タントラとなります。残念ながら、無上瑜伽タントラは日本には伝わってはいないままに、インドでの仏教は破壊されてしまうのですが、その無上瑜伽タントラが継承された国がチベットで、チベット密教から、現在その内容を学ぶことができるようになっています。

手遅れなことはありません。どうせさっぱりされたいならば、悟りという真にさっぱりできる境地を目指されるというのはどうでしょうか。

無上瑜伽タントラの灌頂を機会を得て受けられることを。是非。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

まず、すぐさま回答をいただき、ありがとうございます。
ただ……

私の目から見ると、世界は圧倒的に悪意に満ちています。
他人から見て私の気持ちがわかるわけがない。もちろんその通りです。
だから、苦痛をもって思い知らせてやるしかありません。

私の人生はとっくに台無しになりましたが、では、たとえばどうでしょう……どこかで子供を殺し、その首を母親に投げつけてやったら。

「なんで私だけこんな目に」

とかいって泣くんでしょう。
でも、救いがないのは私も同じです。
で、その私の破滅は、私だけの責任でしょうか?

仏教っぽく尋ねてみます。
そも自他とはきれいに分けきれるものでしょうか?
現実とは、自分や他人、その他あらゆるものを飲み込む濁流が、ひたすらに押し寄せるものではないですか?

想像してみてください。学級で掃除当番を決める時、あなた以外の全員が、あなた一人に押し付ける決定をしたら?
あなたは学級の一員で、一票を投じる権利があり、意志決定者の一人ですが、実質どうにもできません。
彼らはあなたの敵です。
でも、この敵は、あなたの敵になったという自覚を持ちません。面白半分かもしれません。

そして……そこで選択できるのは、懲罰を覚悟して掃除をサボるか、おとなしく従うかだけなのです。

私に救いがないのは、私の責任でもあります。否定はできません。
同じように、私の毒牙に誰かがかかるとすれば、それは私の責任であると同時に、被害者の責任でもあります。
私は私に相応しい振る舞いをするだけではないですか。

私にとって、生きる時間を引き延ばすということは……
苦痛に耐え、搾取される時間が延びることでもあります。

もちろん、復讐しても負けです。一人で全人類を殺しつくせるわけもありません。
でも、何もしなければ泣き寝入りです。
どちらがマシですか?

少し質問を変えてもいいですか?
では、このような憎悪に、仏教ではどう対処しますか?

時間をかけて回答を考えてくださり、ありがとうございます。

原因があって結果がある、だから原因を消せばよい。この意味で仏教は論理的だと思います。
川口様がおっしゃるには「憎悪」は「無明」=無知より生じている、とのこと。
それを克服する方法として「智慧」と「福徳」をあげておいでです。
智慧、福徳という言葉をどんな意味で使っているかのご説明はありませんが、人道に生まれつけば修業しやすく、よって悟りやすく、即ち解決へと至りやすいとのこと。
ただ、それでもあまりに長い時間がかかるので、普通の人は生きているうちには悟れない……

それでお勧めなさっているのが「無上瑜伽タントラ」ですが。
密教の素人にすぐわかるものではないのは百も承知ですが、少しだけ調べました。
そこからわかることを整理すると、これはもう、正式に出家僧になれということでしょうか?

或いは修業を積み重ねた宗教人ならでは、見えるものもあるのかもしれません。
しかし私は凡人であり、また世の中の大半の人もまた、凡人です。
凡人は、誰にでも理解できることしか、理解できません。

「誰にでも理解できること」を別の言葉でいうと「科学的」であるということです。

たとえば、死んだら生まれ変わるのか、それとも最後の審判の時まで眠っているのか、或いは何も残らないのか。
これはわかりません。証拠がないからです。ということは、凡人にはわかりません。追試できないからです。
一方、水を加熱すると沸騰して水蒸気になることは、凡人にも理解できます。誰でも再現できるからです。

この世界には、私に限らず、憎悪が溢れています。
ニュースを調べれば、毎日犯罪や、戦争や、テロリストの活動が確認できるでしょう。
これらを解決する手段が、ある種「魔術的」なところにしかない、ということでしょうか?
言い換えると、救われたと「思い込む」しかないということでしょうか?

申し訳ありませんが、どうにも納得しかねております。

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