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ラブレターを渡しました

回答数回答 2
有り難し有り難し 31

こんにちは、相談させてください。

よく行くお寺のお坊さんに一目惚れをして、よかったら連絡を下さいという一言を書き、連絡先を書いた手紙を渡しました。
人生で初めてのラブレターでした。

待つ事、早1ヶ月お返事が来ません。玉砕です。

返事がないことが返事。
とわかっているし、覚悟はしていましたが、やはり気になってしまいます。

それに加え、嫌がられるかなとか、そのお寺中の噂になっていたらと少し怖くて、そのお寺にも行けなくなってしまいました...

全てはわたしが決めてした事なので、仕方がないですが、もう一度そのお寺に足を運んでもいいと思いますか?

避けられたり、嫌がられたりするのがとても怖くて、悩んでいます。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の思いでフラれるより直接フラれた方があきらめがつく

ウチには届いていませんが、おかしいな。心配だなぁ。
(うん、オメェじゃねぇから安心しろ。)
( ˘ω˘)

こんな悲しいラブストーリーをご存じでしょうか。
ある女性が男性に熱烈なラブレターをに送ったのです。相手はとても悲しい事情があって❝読めなかった❞。
手紙が送られてきたことを執事だけは知っていました。
実は、この執事が黒幕だったのです!
👩「お手紙読んで頂けましたでしょうか」
男性は何のことかわからず執事を通して「手紙のご用件は如何なることだったのでしょうか」と女性に送ったんだそうです。
すると相手の女性の執事も全く同じことをしたのです…!
食っちまってんだそうです…。
この執事たちが執事でもヒツジでもなくヤギさんだったことは言うまでもありません。
結局その恋は実らず、二人はこう言い残して沈黙(死んで)してしまったそうです。
💀「さっきの手紙のご用事なぁに」
🐐丹下作「ヤギたちの沈黙」💌🐐ウメェ…
よって、ヤギさんが食べちゃったのかもしれません。もう一度出しましょう。
朗報:電子メールで送れてばヤギは食べられない!?

( ˘ω˘)
ウチは安穏寺という寺ですが、坊さん業界では住職をしていないと食べていけないので子供の頃、私の師が別の坊さんに「安穏寺」の名前だけを貸してあげていたんです。
そしたらその坊さんいまだに安穏寺と名乗っちゃう困った人でしてねぇ。
しかも法人登録までしちゃう始末。
だから、荷物がそっち行っちゃったり、電話が間違ってかかってきたりで大変です。
本人に「それは道理に反するし、あなたの徳を損なうから安穏寺と名乗るをやめてください。」とお願いしました。
ところが最近また間違い電話がかかってくるのです。
「安穏寺と名乗っていましたか?」と聞いたら「名乗っていました」というのでやれやれです。「読まずに食べた」のでしょう。
お寺って、結構同じ名前がありますから、間違えて別の人に出しちゃったとか、ありませんかね。
(ねぇよ)そうですか…。

( ˘ω˘)
直接アタック大作戦
「返事がないのが返事」なんて、妄想です。
絶対🐐ヤギが食べたに違いない。間違いない。(妄想)
一生の人になる可能性があるのですから、どうせならトコトン全力で当たってから撃沈してください。
あ、ですがワタシ妻子持ちで。困ったなぁ。(うん、オメェじゃねぇから安心しろ。)

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

人を好きになる、それだけでも幸せでは

のっちさんこんにちは、お返事がいただけないことは本当に残念ですね。私もかなり昔というかもしかしたらあなたが生まれる前かも知れませんが同じ経験をしたことを思い出しました。確かにキツかったですね、今思い出しても。でも年を重ね思います、あなたの場合玉砕?かどうかはわかりませんが、人を好きになるてそれだけでもすごく素敵なこと、生きてるて感じられることではないでしょうか。好きになっても相手に伝えなければその想いは伝わらないし、そこから先には進めないかも知れません。伝えなかったら、将来あの時伝えていれば恋は実ったかも知れないのにと後悔すると思います(私の別の経験上)それよりずっといいと思います。嫌がられてはいないか心配とあられますが、私はそのお坊さんもあなたのお気持ちを頂いたことはありがたく受け止められていると思います。恋が実るか実らないかはご縁ですのでなんともいえないですが、あなたが好きになられ、その想いをお伝えされたそのことは素晴らし素敵な事だと思います。その上でそのお坊さんのお寺には足を運んでいただけたらと思います。これも仏さまのよきご縁ですから。

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有り難し
おきもち

長くサラリーマンをしていて、16年前先代の跡を継ぎました。住職となって改めて仏教の勉強不足を実感しています、未熟者です。 hasunohaは私にとって修行の場です。

質問者からのお礼

ご回答頂きありがとうございました。
まだまだ、とても気になっています。勇気を振り絞ってまたお寺に足を運びたいと思います。
お話だけでもできるようになれたら嬉しいです。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ