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一歩が踏み出せない…

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有り難し有り難し 34

初めまして、榎戸と申します。
恥ずかしながら私は、1年半以上も引きこもりをしています。

最近、このままではダメだと思い、アルバイトを始めようと思っています。
両親は「若いうちはいろんな事をして、いろんな経験をしなさい。ダメだった時は辞めて、また何か挑戦すればいいから。」と言ってくれるので頑張ろうと思うのですが、対人恐怖症と呼吸が苦しく感じるほど不安が強いため、外に出るのが怖く、なかなか一歩が踏み出せません。なにか背中を押してくださるようなお言葉を頂けないでしょうか…。

また、私は虚弱体質で幼い頃からよく体調を崩していました。特に胃腸が弱いので、食生活には気をつけています。お坊様方は、健康を維持するため、丈夫な体でいるために何をされていますか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

の実際の本人の実物にだけ会って自身のオバケ👻に会わない心

坐禅会にお越し下さった方が説法によって劇的に引きこもり・不登校・対人恐怖症が治ったという方がおられます。私もびっくりぴょこぴーでした。
若い方は素直なので話を聞くにもストレートに聞いてくれるから効果覿面。ところが、大人は効き目が弱く傾向的にオッサンや自分中心な感情的な女性は人の話を聞くにも、頭が固く自分の考えを優先させてばかりなので効き目が弱いようです。
もっと効き目が弱いのは仏教者・坊さんです。
私自身がそうでしたが、はじめに読んだ仏教書や自分の宗派をエコヒイキして、全然話が通用しないのです。
曹洞宗には立場が偉い人には中身のある教えを説ける人は少ないです。それにうんざりした私は無名ですが「井上貫道老師」という曹洞禅で悟りを継承されておられる方に参禅しました。
私は曹洞宗本山10年修行プライドが邪魔をして時間がかかりました。
自分がやってきた❝悟れなかった❞❝だめな❞教えを優先させながら聞いているから理解が遅いのです。早い人はyoutubeで一撃成仏です。
素直に老師の教え通りにやっていくと確かな効果がありました。
そこで会得された所を、坐禅会でおはなしさせて頂いております。
これに勝る効果のある教えは私の人生では出会ったことがありません。過去質問参照。
禅の説法は法話ではありません。
この自身の説明です。
自分の身心が人間の考え・見解を超えた「法の身(ありよう)」としてどういうありかたをしているのかを見定めることが説法による自身の省察、仏教的自己向上です。
最近の禅の法話というのは同じ業界ながら、何だかドラマめいたものばかりでヌルさすら感じます。人生を変えたければ、そういう説法に触れることです。
効果があった方たちは、自分の中の「人に対するオバケ」をみていた👻ことを知りました。
実際の本当のその人はまったく問題ない人なのですが、自分の中であまりにインパクトが強すぎる出来事があって、それが脳裏に色濃く記憶され、その自己内イメージ👻ばかり相手にしていたのです。私はそれを脳内オバケ除去装置を使って取り除きたかったのですが、そんな機械はどこにも無いのでアナログ会話で地道に説法するのみでした。
彼等は自分の想念を相手にしている事を悟り、翌日から立ち直りました。
よろしければ電話でもどうぞ。
そのコツについてはお話しいたします。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

立派じゃないですか

あぁ、大丈夫ですよ。私も胃腸が弱いです。中学校の時なんか野球部の送別試合で1,2年生に送ってもらう試合に出るだけで胃が痛くなってました。Q&A始めたころは回答書きながら胃が痛くなり、校正しながら胃が痛くなり、投稿ボタン押すにあたって胃が痛くなり、返信を待ってる間に胃が痛くなり、返信が届いて胃が痛くなり、後になって色々ゴチャゴチャ考えて胃が痛くなっていました。いまだにお葬式が入ると午前10時の開式までに4、5回は大に行きます。体質とはいえ困ったもんです。

そんな人でもこんなことしてるんです。大丈夫ですよ。
思い切ってやってみたらなるようになるもんです。思い切ってやってみた方がやらずに思い煩うより、終わりがある分、楽なんです。頑張って。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

質問者からのお礼

お忙しいなか、回答していただき
ありがとうございます。

私が対人恐怖症になったきっかけは、いじめとストーカー被害に遭ったことが原因です。
もう何年も経っているのに、その時の痛みや苦しさ、恐怖を鮮明に覚えています。夢にも出てくる程トラウマです。
でも当時、私を支えてくれた家族や友人、助けてくれた大人もいました。大丈夫だよと言って抱きしめてくれた人もいました。
なのに、怖いこと良くないことに敏感になって、そればかり考えていました。
これからは、人の優しさあたたかさに目を向け、目の前のなすべきことを一つ一つこなしていこうと思います。

ありがとうございました。

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