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お坊さんへのスマートなお礼の仕方

回答数回答 3
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こんにちは
下世話なお金の話で恐縮ですが、ご助言いただければ幸いです。

私は山登りが趣味でよく山歩きをしていますが、山頂などにはお寺があることが多く、門が開いていれば参拝させていただくようにしています。

恥ずかしながら私には仏教や宗派などの知識はほとんどないのですが、それでもお寺に一歩踏み入れた時の、あの独特の落ち着く雰囲気が何とも心地よく、
また、お堂を参拝して掲げられている由緒などを読むと、なぜこんな山奥にお寺があるのかがわかったり、あるいは意外な歴史上の有名人が登場したりして、そんな発見が楽しくてお寺を訪ねています。
(そもそもそのような動機でお寺を訪ねることが良いのかどうかも自信がありませんが…)

そのようなときにお坊さんが声をかけてくださることがあり、いろいろと興味深いお話をお聞かせいただいたり、お茶を出して下さったり、秘蔵の文化財を見せて下さったところもあります。
ある山頂のお寺では「精進料理で良ければ食事していかれませんか?」と庫裡にお誘いいただき、当然有料だと思ったので遠慮なく頂いて代金を申し出ると受け取っていただけないということもありました。

どのような場合もありがたくお礼を申し上げ、お布施についてお尋ねするのですが、たいてい「そのようなお気遣いなく」と仰られますので、せめてもの気持ちで、帰りがけにも賽銭箱にいくらかのお金を入れて辞去するようにしています。

しかしお坊さんが時間をかけて興味深いお話や案内をしてくださることに対して、賽銭箱にコインを投げ込むというのではなく、やはりきちんとお礼をしたいと思いますし、
請求されなかったからといって何もしないと作法知らずと思われているのでは?、とも思ってしまいます。

このような場合に、お坊さんを煩わせることなくスマートにお礼をお渡しするには、どのようにするのが宜しいでしょうか?。
そもそもこのような場合の「相場」もわかりませんので、何卒お導きを賜ればありがたく存じます。

よろしくお願い申し上げます。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「志」「御本尊前」「御布施」など金封

頻繁に行かれるお寺なら、次の機会に、タイトルに書いたようなものを本尊にお供えしたりお寺の方にお渡しするのもよいでしょう。
たまたま訪れて二度と行かない場合も、そういうときに備えて金封を用意してればベターですが、普通は用意してませんよね。
裸の現金をお渡しする場合に、渡しにくい気持ちはわかります。
もらう側も、裸のお札はなんか遠慮してしまうかも。
なので、帰るときに「もう一度ご本尊に手を合わせてから帰ってよいですか?」と言って、
仏像やお堂の前で手を合わせて拝むときに、賽銭箱に千円札とかを入れたり、本尊の前の机に置いたりしてはどうでしょうか。
ただ、一般的に、お寺に知らない人が来てくれた場合、住職はちょっと嬉しい気持ちになりテンション上がります。
ですから、遠慮なく住職のふるまいを喜んで受けていただくのが、住職にとって一番のお布施なのです。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

お坊さんに渡さず、ご本尊にお供えする

お布施とお礼は意味が変わってしまうかもしれませんが、おれいがどうしてもしたいのであれば、お布施といった形で、御本尊さまに上げてくれば、いいかと思います。お布施の場合は、お坊さんに断られることはないはずです。参考になれば。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

寺院消滅を食い止めたいので、と。

今お寺業界では「寺院消滅」がささやかれています。
実際にそういう本がお寺業界では読まれていますし、実際に数十年後廃寺も沢山出てくるはずです。それはひとえにイーオンなどの企業が宗教者でもないのに、個人の収入のためにお寺業界が担ってきた業務をビジネス化してしまっている事が大きく関わっています。何れ罰が当たって潰れますな。
それを食い止めるためだという事で、お賽銭箱などにお納めいただければありがたいです。
また、出来ましたら、そういう企業が立ち上げている葬祭ビジネス、法務ビジネスには安いからと言って頼んでしまいますと、寺院の消滅につながり、その企業は菩提寺ではありませんし、いつか企業は経営が経営不振になりますし、亡き人の供養も従業員ができるわけでもないので、先祖先亡の魂が浮かばれませんので、なるべく事務的な法務、葬祭には加担をしないで頂きたいという事が我々の切なる願いであります。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

みなさま、ご丁寧なご助言を賜り、ありがとうございます。

今後、山歩きなどへ行く際には、「御布施」とした小さな金封をいくつか作っておき持ち歩いておきたいと思います。
もしお坊さんに渡しにくい雰囲気であれば、ご本尊の前などに置かせていただくなど工夫したいと思います。

それにしても、見ず知らずの突然の訪問者に温かく声をかけて下さり、私の興味が、教義ではなくお寺の由緒や建物、文化財に対するものとわかっても、嫌な顔ひとつせず、わかりやすく教えてくださることにはいつも頭が下がる思いです。
私が行うお布施程度では寺院消滅の抑止には何の役にも立たないでしょうが、穏かなひと時をいただいた御礼も込めて、お布施としてお渡しさせていただくようにしたいと思います。

このたびは本当にありがとうございました。

 

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