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主人の死と向き合えていなかったこと

回答数回答 2
有り難し有り難し 30

こんばんは。
歩き出しては立ち止まり、迷ってはお坊様方にいただいた回答をもう一度読み返し、気持ちを切り替えてきました。そして、ようやくひとつ先へ進めたかのように思えていた矢先に、ある音楽を耳にしました。それは、2人で良く聴いていた曲でした。
私はとても嫌でした。聴いていられませんでした。なぜだかそのときはわからなかったのですが、あとからじわじわと気づきました。
私は主人の死に全く向き合えていませんでした。
亡くなったらどうなるのか、それがわかれば生きていける、そればかり気にしていて、根本的なことを受け入れていなかったのです。

主人の為にお葬式や新盆はしっかりやってあげたかったし、会社の方が来られてもしっかりした様子を見せたくて気を張っていたし、子供たちにはあまり悲しい顔を見せないように、もちろん子供たちが辛いときは一緒に悲しみに寄り添い、いままでと変わらない元気で明るい家族でいたくて頑張ってきました。主人の為、子供たちの為に進んでいくしか、生き方がわかりませんでした。
周りの人に「ちゃんと前に進めてるよ」って言ってもらいたかったのかもしれません。

そのために死を受け入れる時間は後回しに、どう向き合っていくことが幸せなのかを優先に考えてしまったのだと思います。

主人の死を受け入れるためには、どうすべきなのでしょうか。向き合う必要性があるのかすら私にはわからないのです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

事実に立つ―機が熟す―

ゆこ様おはようございます。

これまでのご相談ではずっと、

亡くなったご主人は「今どうなっているのか」「会えるのか」という問いであり、おっしゃる通り「どう向き合っていく」のかという視点だったのでしょう。

ゆこ様の

「亡くなったらどうなるのか、それがわかれば生きていける、そればかり気にしていて、根本的なことを受け入れていなかったのです。」

このお言葉は私にも大変響くところがございました。

何よりもまずは「ご主人が亡くなったという事実」に立つ、受け入れるというプロセスが必要だったのかもしれません。

そのために何をなすべきか、どうすべきか…

お仏壇で手を合わせる、お墓参りをするというのもその一つでしょう。しかし私としては何よりも、ご主人についてのお話を「聞く」、そしてゆこ様が「語る」ということが大きい様に感じます。

例えばですが、

ご主人の親御さん、旧友・友人、会社の同僚・上司などを訪ねて、ご主人はどんな人だったか、皆さんにとってどんな存在だったか、失ってこれから皆さんはどう生きていくのかという話を「聞く」。

そしてゆこ様の気持ち・思いを「語り」、聞いてもらう。もちろん月命日に僧侶にお参りに来ていただいて、ご主人への思いを聞いてもらったり、僧侶から死についての話をしていただくことも考えられるでしょう。

これまでは日々の生活とどう向き合っていくか、そのためにはご主人の死をどう考えたらよいか、ということに追われ、「大切な人の死という事実」に真正面から向き合う時間や機会が得られなかったのかもしれません。
いや、自分でもわからないまま無意識にゆこ様のお気持ちの深い所でそれを避けていて、ようやく機が熟したのかもしれません。

「向き合う必要性があるのかすら私にはわからない」

とおっしゃりますが、私としてはやはりその事実に立つことが大切ではないかと考えます。それは苦痛を伴うかもしれませんし、簡単な事ではないでしょう。

あらためまして、大切なご主人のご命終に謹んで哀悼の意を捧げます。

またいつでもなんでもご相談ください。お話をお聞かせください。ご主人への思いをいくらでも語ってください。

南無阿弥陀仏

合掌

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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無理に受け入れる必要はないですよ

ゆこ様
こんにちは。拝見させていただきました。

ご主人を亡くされたとの事。つい先日ですが、私もゆこさんと同じような境遇の方(奥様の方が亡くなられた場合でしたが)のお葬儀をさせていただきました。そのご家族もゆこさんと同じような事を話されておりました。

私はお坊さんなのでたくさんの死を見ていますが、医療・葬儀に関わらない人は日常から死が隠されてしまっているので死に間近に接する事がないのでその際のストレスが非常に重くかかってしまいます。ですから、「前向きにならなくては」「平常心にならなくては」といった気持ちが起こってきます。本当は「悲しくて何もやる気も起きない」というのが「自然」なのです。人間は弱いんです。理性的に生きてきてしまうとそれが「悪い事」のように感じてしまうのです。

前に進もう。悲しませてはいけない。しっかりしなくては。ちゃんとしなくては。そういった気持ちを否定するわけではないのですが、どこか周りの事をちゃんとこなしていく中で「りこさんの心の中の「さみしいよぉ」「なんでおいていったのよぉ」「もっと大切にしてほしかった」「大切にしてあげたかった」という「弱いりこさん」が置いてけぼりになっていないかなぁと感じました。「受け入れる」というのは、「乗り越える」事でもなく、忘れる事でもありません。「受け入れられないよー!」という気持ちを認めて受け入れる事なんです。「受け入れられない今を受け入れる事」です。「つらかったよね。今はそれでいいよ」って自分の中の弱いりこさんに言ってあげる事。

ご主人はきっと「てきぱきとこなすりこさん」ではなく、もう一面の「ぐずぐずしちゃうりこさん」をちゃーんと見抜いて、それでも大丈夫って大切に思ってくださっていると思います。

自分の心の中の自分に声をかけてあげてください。自分がかけて欲しかった言葉はどんなものでしたか?もしその言葉が心にヒットすれば少しだけやわらかくなる反応を感じることが出来ると思います。「頑張ったねぇ」「つらかったねぇ」と声に出してみてください。「今はくよくよしてもいい」「今は弱くてもいい」「今は」とつけると心の抵抗が少なくなり言いやすくなると思います。

字数の関係で死後についてはお話できませんでした。また気持ちはどんどんここではき出してくださいね。お待ちしております。合掌

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おきもち

御縁があって一般人からお坊さんになりました。現在は小さなお寺の住職をさせて...
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質問者からのお礼

吉武さま。
今朝、吉武さまよりお返事をいただけたとき、またお会いできたことと、共に考えていただけたことに、嬉しくて涙が溢れました。
ありがとうございました。

1日1日を真面目に生き抜いても、その先の未来は何があるのかとか、考え込む日がありますが、今まさに「機は熟した」となれば、少しずつ向きあって行こうと思います。
吉武さま、私が主人の死に向き合えるように、乗り越えていけるように、これからも応援してください。

けんじゅさま。ありがとうございます。
私の中でたぶん一番触れられたくない、でも、一番わかってほしい部分を付かれたようでした。無理はしないよと周りに話しても、無理をしないといられないとか。「受け入れられない今の自分を受け入れる」ことなんて、気づくこともできませんでした。
「私は寂しい」と口にしてしまえば、二度と出口の見えない迷路のようなところに迷い込んでしまうのではないか。それが怖かったのです。
前にも後ろにも進めないでいる私は、どうして良いのかわからず、核心部分では誰にも頼れず、独りで悩みこれからも生きていく自信が持てずにいました。

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