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信仰について

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有り難し有り難し 15

 私は仏教徒の家庭に育ち、幼い頃からお寺に通い、お坊様と話すのが大好きな幼少期でした。仏教系大学を卒業しましたが、就職後、人間関係でうまくいかず、キリスト教と出会い洗礼を受けました。
 しかし、教えへの疑問は続き、今は禅の考えに共感していて、キリスト教も仏教も
人の悩みに対する解決策としては考え方が近いなと感じています。
 このサイトに出会い自分の疑問、不安を
質問させていただき、ありがたく感じています。
 心配し過ぎず、考えすぎず、目の前の出来事だけを事実として生きていく?これでいいのでしょうか?
 生き方と考え方のアドバイスをいただきたいのでよろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

六根を大切に

目の前のことを事実として捉えるなんてこと考えなくても、目、耳、鼻、舌、身体、心がそのまんまを受け入れています。真実とは、そういうことだと思います。考えが先になると、真実からそれていきます。

今この瞬間しか存在していないということです。

そして思いは出てきても自然に消えていきます。こうしようああしようなんて考えることもなく、消えていくものです。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

悟りに国境、人種の隔てなし。 安らぎに宗教宗派の隔てなし。

たとえ話ですが、キリスト教と仏教とイスラム教の方がびっくりドンキーで同席で仲良く食事をしていたとします。
キリスト教徒の方にとってパンとワインがキリストの体と血を意味することであっても、皆でワインとパンを楽しんで頂けば誰でも等しく同じ味。
蓮の花が飾ってあれば仏教者にとって特別に映っても、他の人にとってそれはただのロータスでお店の飾り物。
ハンバーグはイスラム教の方は食べられないから豆腐ハンバーグを食べたとします。
そころが豆腐バーガーの中にも若干の豚肉や味の素が入ってたが、知らされていなかったので何も問題は起こらなかった、とします。
上記は仮の話ですが、ここにすべての宗教の小さな隔てを超えられる真の宗教性があります。
ものの本源、根源においては、どんなものにも何の付加価値や宗教思想的な意味も添えられていない。
讃美歌が流れれば、仏教徒であっても美しいと感じる。
音に宗教の隔てなく、耳に聞こえるサウンドにラベルなく、宗派はありません。
どんな人でも、世界各国の文化・宗教的な隔てなくすべてを純粋に味わい感じ取る力を持っている。それこそが真の宗教性であり、誰もがそういう世界を純粋に感じ取れる力をもっています。そういう本来の無色透明の宗教性を禅といい仏教の悟りといいます。
ですが、ここで禅だ仏教だと言ってしまうと、別の宗教宗派の方が隔ての気持を起こしてしまってもいけません。
「禅も宗教だ、宗派だ、思想だ」と誤解をされてもいけませんので避けるためにあえて「お店」を例に考えましょう。
お店は誰でも隔てなく受け入れ、お客が誰であろうと宗教宗派も選びません。
人間は本来どんなものでも等しく味わい、楽しむことができるはずです。
だから真の宗教家は、ラベル、肩書きの隔てを超え、根本を見抜く目を持った者でなければならない。信仰する側は何を信仰するにしても、その宗教が本当に宗教なのか、思想なのかを見抜く眼こそ、必需な心です。
禅だから坐禅でなければならない、という禅僧は偏狭な思想家です。
何故なら仏教や禅とは、物事の根本を見抜き、精神の自由性を得る教え。
禅に固執し他宗を認めなければ、そんな禅僧は偏狭的と言わざるを得ません。
宗教、宗派間であまり、こういうことが、押しつけがましくなるから宗教が宗教でありながら思想の対立になるのです。
この道理を弁えられ、もっと大きな道を行くべきです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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