信仰について
私は仏教徒の家庭に育ち、幼い頃からお寺に通い、お坊様と話すのが大好きな幼少期でした。仏教系大学を卒業しましたが、就職後、人間関係でうまくいかず、キリスト教と出会い洗礼を受けました。
しかし、教えへの疑問は続き、今は禅の考えに共感していて、キリスト教も仏教も
人の悩みに対する解決策としては考え方が近いなと感じています。
このサイトに出会い自分の疑問、不安を
質問させていただき、ありがたく感じています。
心配し過ぎず、考えすぎず、目の前の出来事だけを事実として生きていく?これでいいのでしょうか?
生き方と考え方のアドバイスをいただきたいのでよろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
六根を大切に
目の前のことを事実として捉えるなんてこと考えなくても、目、耳、鼻、舌、身体、心がそのまんまを受け入れています。真実とは、そういうことだと思います。考えが先になると、真実からそれていきます。
今この瞬間しか存在していないということです。
そして思いは出てきても自然に消えていきます。こうしようああしようなんて考えることもなく、消えていくものです。
悟りに国境、人種の隔てなし。 安らぎに宗教宗派の隔てなし。
たとえ話ですが、キリスト教と仏教とイスラム教の方がびっくりドンキーで同席で仲良く食事をしていたとします。
キリスト教徒の方にとってパンとワインがキリストの体と血を意味することであっても、皆でワインとパンを楽しんで頂けば誰でも等しく同じ味。
蓮の花が飾ってあれば仏教者にとって特別に映っても、他の人にとってそれはただのロータスでお店の飾り物。
ハンバーグはイスラム教の方は食べられないから豆腐ハンバーグを食べたとします。
そころが豆腐バーガーの中にも若干の豚肉や味の素が入ってたが、知らされていなかったので何も問題は起こらなかった、とします。
上記は仮の話ですが、ここにすべての宗教の小さな隔てを超えられる真の宗教性があります。
ものの本源、根源においては、どんなものにも何の付加価値や宗教思想的な意味も添えられていない。
讃美歌が流れれば、仏教徒であっても美しいと感じる。
音に宗教の隔てなく、耳に聞こえるサウンドにラベルなく、宗派はありません。
どんな人でも、世界各国の文化・宗教的な隔てなくすべてを純粋に味わい感じ取る力を持っている。それこそが真の宗教性であり、誰もがそういう世界を純粋に感じ取れる力をもっています。そういう本来の無色透明の宗教性を禅といい仏教の悟りといいます。
ですが、ここで禅だ仏教だと言ってしまうと、別の宗教宗派の方が隔ての気持を起こしてしまってもいけません。
「禅も宗教だ、宗派だ、思想だ」と誤解をされてもいけませんので避けるためにあえて「お店」を例に考えましょう。
お店は誰でも隔てなく受け入れ、お客が誰であろうと宗教宗派も選びません。
人間は本来どんなものでも等しく味わい、楽しむことができるはずです。
だから真の宗教家は、ラベル、肩書きの隔てを超え、根本を見抜く目を持った者でなければならない。信仰する側は何を信仰するにしても、その宗教が本当に宗教なのか、思想なのかを見抜く眼こそ、必需な心です。
禅だから坐禅でなければならない、という禅僧は偏狭な思想家です。
何故なら仏教や禅とは、物事の根本を見抜き、精神の自由性を得る教え。
禅に固執し他宗を認めなければ、そんな禅僧は偏狭的と言わざるを得ません。
宗教、宗派間であまり、こういうことが、押しつけがましくなるから宗教が宗教でありながら思想の対立になるのです。
この道理を弁えられ、もっと大きな道を行くべきです。