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信仰について

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有り難し有り難し 15

 私は仏教徒の家庭に育ち、幼い頃からお寺に通い、お坊様と話すのが大好きな幼少期でした。仏教系大学を卒業しましたが、就職後、人間関係でうまくいかず、キリスト教と出会い洗礼を受けました。
 しかし、教えへの疑問は続き、今は禅の考えに共感していて、キリスト教も仏教も
人の悩みに対する解決策としては考え方が近いなと感じています。
 このサイトに出会い自分の疑問、不安を
質問させていただき、ありがたく感じています。
 心配し過ぎず、考えすぎず、目の前の出来事だけを事実として生きていく?これでいいのでしょうか?
 生き方と考え方のアドバイスをいただきたいのでよろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

六根を大切に

目の前のことを事実として捉えるなんてこと考えなくても、目、耳、鼻、舌、身体、心がそのまんまを受け入れています。真実とは、そういうことだと思います。考えが先になると、真実からそれていきます。

今この瞬間しか存在していないということです。

そして思いは出てきても自然に消えていきます。こうしようああしようなんて考えることもなく、消えていくものです。

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悟りに国境、人種の隔てなし。 安らぎに宗教宗派の隔てなし。

たとえ話ですが、キリスト教と仏教とイスラム教の方がびっくりドンキーで同席で仲良く食事をしていたとします。
キリスト教徒の方にとってパンとワインがキリストの体と血を意味することであっても、皆でワインとパンを楽しんで頂けば誰でも等しく同じ味。
蓮の花が飾ってあれば仏教者にとって特別に映っても、他の人にとってそれはただのロータスでお店の飾り物。
ハンバーグはイスラム教の方は食べられないから豆腐ハンバーグを食べたとします。
そころが豆腐バーガーの中にも若干の豚肉や味の素が入ってたが、知らされていなかったので何も問題は起こらなかった、とします。
上記は仮の話ですが、ここにすべての宗教の小さな隔てを超えられる真の宗教性があります。
ものの本源、根源においては、どんなものにも何の付加価値や宗教思想的な意味も添えられていない。
讃美歌が流れれば、仏教徒であっても美しいと感じる。
音に宗教の隔てなく、耳に聞こえるサウンドにラベルなく、宗派はありません。
どんな人でも、世界各国の文化・宗教的な隔てなくすべてを純粋に味わい感じ取る力を持っている。それこそが真の宗教性であり、誰もがそういう世界を純粋に感じ取れる力をもっています。そういう本来の無色透明の宗教性を禅といい仏教の悟りといいます。
ですが、ここで禅だ仏教だと言ってしまうと、別の宗教宗派の方が隔ての気持を起こしてしまってもいけません。
「禅も宗教だ、宗派だ、思想だ」と誤解をされてもいけませんので避けるためにあえて「お店」を例に考えましょう。
お店は誰でも隔てなく受け入れ、お客が誰であろうと宗教宗派も選びません。
人間は本来どんなものでも等しく味わい、楽しむことができるはずです。
だから真の宗教家は、ラベル、肩書きの隔てを超え、根本を見抜く目を持った者でなければならない。信仰する側は何を信仰するにしても、その宗教が本当に宗教なのか、思想なのかを見抜く眼こそ、必需な心です。
禅だから坐禅でなければならない、という禅僧は偏狭な思想家です。
何故なら仏教や禅とは、物事の根本を見抜き、精神の自由性を得る教え。
禅に固執し他宗を認めなければ、そんな禅僧は偏狭的と言わざるを得ません。
宗教、宗派間であまり、こういうことが、押しつけがましくなるから宗教が宗教でありながら思想の対立になるのです。
この道理を弁えられ、もっと大きな道を行くべきです。

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「宗教について」問答一覧

宗教や宗派ってそんなに重要ですか?

宗派のラベリングに重要性が見いだせず、むしろ弊害を感じることが多いです。 (800文字と長めです。) 以前とある牧師さんに教わりました。「キリスト教は浄土宗とソックリだ。日本向けのローカライズのために、あえて仏教に化けて広めた可能性を疑う研究者すらいる(笑)」 真偽はさておき、個人的には同感です。核心部たる念仏などは酷似しており、言葉が違うだけで内容はほぼ一致かと(素人目には)感じています。となると、キリスト教と浄土宗の本質的な違いは何でしょうか?人智を超えた神仏を※※教だけが独占できると見なす構造にも疑問があります。 ここからが本題です。その違い(ラベリング)は、諸々の軋轢を覚悟してまで保つべき、重要な違いなのでしょうか? 些細な見解の差で派閥や宗派が分かれていき、しまいには宗教戦争が起こるのだとしたら、単なるセクショナリズムと何か違うのでしょうか?5%の違いのせいで協力できず、残り95%の共通点を捨てているように見えます。ましてや同じ宗派や寺院の所属でも、個人ごとに意見はバラバラだというのに。宗派の上納金制度?などを聞いても、宗派はいわゆるビジネス上の"のれん"に過ぎないのでは?との現実的な疑問も浮かびます。 問いの対象は浄土宗だけではなく、宗教と道徳の境界線についてです。話がそれますが、中東問題などを理解する上でも避けて通れないテーマです。奇譚のないご意見を頂けると嬉しいです。 問を整理します。 「学べば学ぶ程に、宗教や宗派のラベリングに重要性が見いだせません。むしろなぜ拘るのかわかりません。私に欠けている視点を、どうかお聞かせください」 以下は補足です。 私はキング牧師やガンジーを尊敬しています。彼らは別々の信仰を持ちつつも、※※教徒のためではなく、社会全体の差別撤廃のために活動しました。それでいて、全ては信仰に基づくと明言しています。このスタイルに敬意を持つ反面、宗教宗派のラベリングに違和感を持つということは、何かを見落としているのでしょうか? 宗教とか宗派に拘りがなく、人に言われるまで気づきもしないのはダメなのでしょうか?

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お先真っ暗

色々な人に助けられて何とか生きています。婦人科系の病気は中々手強いです。 私は一応キリスト教の信者なんです。もう20年以上も教会には行っていません。キリスト教では自殺は絶対に認めません。私が薬を買っただの飲むだなとここで言っていますが、どうしても理解出来ないんです。理由や原因が何であれ心身共に弱っていて命を絶ってしまった人の霊魂を受け入れないなんておかしいって神父様に言った事があります。頑張った、ギリギリまで頑張ったけど駄目だった人を、神から与えられた命を勝手に消したのは許されないなんて慈悲の神様がする事なんですか?って。結局水と油で教会には行かなくなりました。聖書をこの時くまなく読みましたが、自ら命を絶つ事は許されないと弟子が言っていて、イエズス・キリストは言っていないなと。こんな私がおかしいですが、自ら命をを絶った人の霊感が天国で安らかに過ごせます様にと祈っています。それは間違っていると神父さまが言ったので、もう教会には行かない事にしました。お坊様はどう思われますか?やれ薬をかったとか飲むとか言った私が聞くのは変かもしれませんが。 政府は決して認めようとはしませんが、CORONAの第1波が治らない内に明らかに第2波が日本を襲っていると思っています。益々主人は日本には来れないだろうと、もう一生会えないかもしれないとさえ感じています。婦人科系の病気はさっぱりです。治りません。通院に疲れています。でも、何とか生きています。息も絶え絶えです。

有り難し有り難し 28
回答数回答 2

宗教とは

祖父の葬儀の時に「死後の世界はこうなっています」と何層かになっている図の説明を受けました。 仏教に限らず死後の世界、天国地獄も含めて「あることは知っているでしょ」からはじまることが多く、「なんでだれも見たことないのにあるということになっているのか」が解りません。 さらに私の認識では例えば仏教はゴーダマシッタルーダが釈迦のペンネームで小説を書いてそれを各宗派の開祖が読んで読書感想文を広めた、というイメージなのです。そう考えないと宗派毎の教典の違いや祭事の違いなど差が出てくることが理解できません。 宗教が絶対のもので揺るぎがないものであれば解釈が変わったり宗派が分かれたりするものではない。会派が別れたり解釈が変わるのは不完全な創作物である証かと思います。広めるために土着信仰と結びつくなどその尤もたるところです。 かなり偏った意見になっているのですが「こういうことになっている」だけで「なぜそういうことになっているのか」「それが間違いない検証は取れているのか」を説明しているものがあれば教えていただきたいと思います。 化学実験でいえば「再現性」、こうすればこうなる、というものです。それがなければ「どうなるか解らないのに信仰するの?」となってしまいます。 また、どうしても論理的に根拠がしっかりしているものでないと認められない性格なのですが、「いやいや宗教というのはそういうものじゃないんだよ」というのがあれば教えていただけないでしょうか。

有り難し有り難し 33
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宗教、神道、スピリチュアル

今の世の中は情報で溢れています。 スマホって簡単にいろいろ調べることができて、情報で溢れかえっています。 心がツライときや精神的にしんどいときに、 精神的に弱く強くなりたいなぁ 傷つきやすい性格を変えたいなぁと思い、 検索魔になって検索すると、 あれやこれやいろいろ出てきて、 何が良くて何が悪いわけではないと理解していますが、情報が多すぎて、よくわからなくなってきます。 何がホントなのか?何を信じていいのか? きっと私意外にも藁をもすがる思いで、いろいろ検索する人もいると思います。 (確固たる宗教など崇拝してる方は、このような迷いはないかと思いますが…) 信じたいことだけ信じてればいいのでしょうか? 仏教的な目線は下記のことはどのように思われますか? 全ての出来事は引き寄せ? 出会う人や出来事は偶然?必然? 自分に起こる出来事は必ず必要? 乗り越えられない試練はない? 健康に問題があるときは暗示? 仏様にお願い?神様にお願い? 宇宙に任せる? 自分の胸にすーっと収まった言葉こそがご縁があり、その時に、ん?なんか腑に落ちないなって思う言葉は受け入れなければいいのでしょうか? そのような言葉でも後から受け入れるようになるかもしれませんが… 私自身、家に仏壇もあり仏教ですが、正直、意識するときはお墓まいりや法事の時だけです。ですが、今度はお墓があるお寺に仏教講座があるので、参加しようと思っています。 自分勝手な考え、散文、お許し下さい。 お手数お掛けします。よろしくお願い申し上げます。

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信仰ってなんだろう

私は、信仰するということの概念について悩んでいます。何故なら、私は、神様や仏様の存在を信じてはいるのですが、それは人間の心の内にある概念に過ぎず、形而下で捕捉できるものではないと思っており、この考え方が取っ払えない以上は心底から神仏を信仰することは叶わないのではという疑念を抱いているからです。 私がこのような考え方をもったきっかけは、遠藤周作さんによる著書「沈黙」を読んだことです。ご存知でない方に簡単にあらすじを説明しますと、キリスト教の弾圧があった江戸時代に、ある宣教師が拷問の末に棄教したという報を受けてその弟子が真相を求めて来日し、救いを求める弱い隠れキリシタンや彼らを拷問にかける大名と出会いながら、仏教との相違や絶対神の是非について考え、葛藤するというものです。 私がこの小説で衝撃を受けたのは、諸行無常の考えを礎とした仏教を信仰しているはずの大名が、キリシタンだというだけで農民の魔女狩りを行い、キリスト教の弾圧に執心していたことです。 宗教というのは、固まった思想を提示することで人々の心を安定させたり、民衆を統制させる側面があるとは思うのですが、劇中のように政の道具としての扱いにとどまったり、科学が普及した現在において金稼ぎのダシに成り下がってしまったりする宗教文化を多々見ると、もしかして心の底から神仏の存在を信仰することは最早なり得ないのではないか、という疑念を感じずにはいられません。 こうした疑念に輪をかけるのが、自然の脅威です。現在猛威を振るうコロナウイルスや、台風、地震などといった災害は、私たちにとっては害悪でしかなく、早期の収束や撲滅を願われるばかりですが、それらの現象は我々の嘆願とは関係なくただ事実として存在するのみであり、これらを既成の宗教概念によって説明するには限界が生じるのではないかと思います。それを考慮すると、我々に都合の良い神仏への疑念が益々助長されるばかりです。 私は、目的によっては多少の方便は許されても良いと思っていますが、神仏を本気で現実のものと信じている方々のことを考えるとどうしても後ろめたいものを感じます。こうしたことについて、僧侶の皆様はどう思われるのでしょうか。冒涜と思われるのでしょうか。それとも、これも信仰と思われるのでしょうか。 大変無礼な質問であると承知しておりますが、何卒宜しくお願いいたします。

有り難し有り難し 28
回答数回答 3

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