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混乱してる自分。

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先月から他の部署に数回ヘルプで入っているのですが、そこの指導係の女性がキツいので、先日その事を責任者に言いました。

指導係の女性ですが、仕事の質問をすると怒ります。「経験者と聞いたのにそんなこともわからないの?」「会社の方針だからいちいち聞かないで」「とにかくやれっていってるの!」

「とにかくやれっていってるの」で私もキレてしまい、お客様の前でしたのでそこでは平静保ちスルーするのがやっとでした。指導係の女性とは目も会わせず、仕事が終わりました。

その後責任者の方に全ての出来事を話をしました。指導係の女性の言い方が我慢できないと、次にこのような言い方された場合は私も黙ってはいませんので、と伝えました。
責任者の方が言うにはそういうクレームが断たない方で注意してるけど聞かないようです。

私も覚悟して責任者の方に言ったので次にヘルプの声がかかるかはわかりませんが、もし次に同様な発言されれば言うと思います。

ただ夜にふと自分の過去の相談を読んでしまい(読まなきゃよかったんです)私がキツい?私の質問がおかしかった?私が人の話を聞かない?一方的?だからもめる?今回もそうなのかな?私は学習能力ないのか?

考えてるうちに混乱して気分が悪くなってきました。

もうどうしていいかわかりません。よっぽど私の性格に難があるのでしょうか?

乱文でわかりくくてごめんなさい。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

今日の一念は今日の一念

念とは今の心と記します。
過去の質問をしていたあなたは何処にもいません。
今をそれを取り扱ってあれこれ騒ぐ【かきまわす】あなたの心、その【一念】だけが騒がしいだけです。
一念は毎度毎度あたらしい。
またか。
…は、ゼッタイにないのです。
過去のことを今日新たに悩んだとしてもそれは今日新たに思い返しているのです。
悩むのはいつでも今。
思いから自由になるのもいつでも今。
常に今は今です。
繰り返し、反復はありません。

問題は相手を問題にする自分。
他人のことを問題にする自分の心をこそ問題にしてみましょう。
(-_-メ)うーん、このままの自分ではいけない!この心を変えなきゃ、受け止め方を変えなきゃ、アレコレ思う前に事実をその通りに受け止めるようにしなければ、と思うことです。
子供は素直です。
起こられてもプライドも何もありません。
素直に「はい!」です。
素直ではないのは「何か」が引っかかっているのです。
およそそれはプライドや立場や名誉めいたもの。
そういうものを付随させずにただ素直にペケはペケ。
良いことは良いこととして、自分をアレコレ介入させないことです。
すると、その通りのことをその通りに頂戴して、裏読みも深読みもありません。
自分の一念のページが展開されて脳内フリーズしません。
❝展開❞させないでいてください。
目玉は見たところを見ただけ。
耳は聞こえたことを聞いただけ。
思いがアレコレ良からぬところにリンクして現場から遠ざけるのです。
現場は絶対にぶれません。
怒られたり、指摘された後はそこには音も、その出来事も影すらありません。
それを引きずって今もあたかもあるかのように思っておられるのが、ものを留める自分の思い込みです。
けむりを掴んでみましょう。
けむりという間にそれは煙とすら呼べないものとなっていましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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