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今は、地盤固めの時かな

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病気の回復のメドが立たないまま 時だけが、過ぎるだけで 焦り 苛立ちがたまって行きます

僕の生年月日や干支等で、本厄大役でした

後、大殺界の時期 見たいで

体調も、外出しても不思議に体調が悪くなるし
病院で精密検査してもらうも、決定的な病名がつかない状態です😢

でも、先生いわく 確実に右足の突っ張り
脳内に空洞等があるし

傷病手当の期間の終了をかなり気になってしまいますし 周りからしたら、元気なのに仕事に出ないと思われてるのじゃないかとか、人の目を気にしてしまい 疑心暗鬼になってしまったです

今は、もがけばもがくほど 沼にはまりそうなので先ずは、僕の地盤改良から始めようと今更ながら思います

まずは何をして良いか分かりません

なるべく 誰かについて外出をして体力が落ちない様にしていますが直ぐに、怖くなってしまいますし
頭がフワ~とか足が拒絶するし

どうすれば、良いのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

わるい「ひ」をやめる。

否定する。
批難する。
批判する。
悲観する。
ネガティブな心の「ひ」をやめてみましょう。
するとその「ひ」はあなたを燃え上がらせる「ひ」となります。
火は用い方でやけどします。
上手に使えば調理や温め、照らし、平和の火になります。
「ひ」とはエネルギーです。
私たちの体内にあるエネルギーは元々、悪いエネルギーでも良いエネルギーでもありません。
本人の使い方によって悪いものになってしまうことがあるだけです。
あなたは自分のエネルギーを否定的エネルギー、悲観的エネルギー、批判的エネルギーにしているのです。
やるべきことから逃げる否定的エネルギーは、その自分を否定することを「止める」為のエネルギーにしましょう。
物事を悪く考える悲観エネルギーは、良し悪しのジャッジをしているだけです。
悪くジャッジするエネルギーにせず、今日はこれができた。これをしてもらえた。これだけGETできたという 肯定的エネルギーにするのです。
他人や自分をDISる批判・批難エネルギーは、悪い所を指摘するのではなく、ホメホメエネルギーや良い所探し、改善策を提案するエネルギーにしてみましょう。
同じエネルギー「ひ」でも、活用の仕方をあなたは知らないだけ。
あなたができるスキル、力を平和エネルギー、善玉菌エネルギーにすることだけを心掛けてください。
そうすれば、あなたも寝たきりであっても誰かを助けることが出来るのです。
(当方、只今風邪をひいて病床よりアドバイスさせていただいております)
病気じゃ何もできねぇ、とか思っていませんか。
私は今病気ですが、あなたにエネルギーを送っていますよ。
あなたの「生命」の「火」を善玉菌、平和、やさしさ、たすけのエネルギーにするためにこそ、もう一度、職場復帰を試みてください!
立ち直った時、嬉しい返信を期待しております。
自分のためだけにやるんじゃないのです。
善玉菌、たすけ、世の毒素を取り除くためにこそ勤めるのです。
古来より宗教者たちは自分のためにやらなかったのです。
自分のためにやらないからこそ沸き起こる「火」もあるのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元 様

ありがとうございます✨

日常生活は、おくれていますが 次から次に体がどこか 悪くなっていますが、脳→右足の突っ張り→左手の腫れ→倦怠感や吐き気等
ありますが 体の悪い所が一気に出ている気がしますが、悲観的にならないで

DBの唄みたいに、限界突破~ って立ち向かって行きますね

御礼文が遅くなり誠に、すみませんでした

覚元様も、御体に気を付けて下さいね✨

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ