hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

「人生」という長期的な考え方が出来ません。

回答数回答 2
有り難し有り難し 32

自己紹介欄にも書いたのですが…

「人生をどう長期的に考えたらいいのか」が、これまでもずっと分かりません。

大切な人を悲しませないため、自分の本当にやりたいことをやるため、自分の感謝の気持ちを恵まれていない人に奉仕するため…など色々あるかと思いますが、どれも私には響いてこないのです。

これまでどれだけの時間を懸命に生きるために考え、実行してきたかは分かりません。

どれだけの本を読み、精神科に行って相談し、服薬し、友達に相談し、瞑想をしてみたり、自殺未遂をしたり…。

でもどれもこれも、「人生」という長期志向に至るための答えを与えてはくれませんでした。

「空の思想」も知っていますし、自分がどういう存在であるかという確証を持たずとも、誰かの気持ちの媒体となるような存在であることもいいのかもしれません。

ただやっぱり私としては、生きる目的や価値観など、一定の不動なものがないと、生きていく意味が分からず苦しいだけなんです。

不安定な感情に自分が振り回され、それを自分の大切な人に影響したりすることは、これこそ絶対に許せないこと。

自分の傾向として、「絶対という思想」「二元論的な考え方」「一人称の思考」「リラックスという感覚の欠如」「思考・行動でのバランス感覚の欠如」があります。

これらにはそれ相応の対応や生活の改善を行っていますが、それでも根源的な答えには結びつかず…という状態です。

友達からは、「結局いつも同じ所(同じ悩みや考え)に帰ってきてるよ」と言われますが、本人としてはそれが理解できていません。
それに、「深く考えすぎる」「(周りに対して)緊張している/頑張ってる」ともよく言われますが、深く考えない方がおかしいのではないかという考えは変わりませんし、緊張している云々は単に「警戒心」なんです。

結局は、人を信頼できていないことが原因と思いますし、父親との確執による自分の半分の遺伝子への嫌悪や、母親の共依存傾向への反発など、家庭環境が今の自分を構成させていることも分かっています。

でももうこれ以上、そこに原因を求めて被害者意識でいるのはうんざりなんです。

御託を並べているように感じられるかもしれませんが、上記のような状態をなるべく緩和出来るような教え・ご意見を頂けないでしょうか?

わがまま・独りよがりかも知れませんが、宜しくお願い致します!!


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

日々是好日

「人生」という長期志向ですか

しかし何かコレといった目的・意味・価値等を設定してしまい、それに執着することとなると、

それが達成されてしまった時
それが達成できないと判明した時
手に入れたそれが失われた時

などは逆に絶望することとなりはしないでしょうか。

「これがあれば安定」というものを求めることは「それがなければ不安定」と=でもあります。
もちろん目的・意味・価値がダメなものとは言いません。しかしそれだけに固執するのはあまりいい傾向ではないと感じます。

長期的な目的を見据えつつ、それに向かって行う日々の生活での短期的目的が設定できて、なおかつ目的外のことでも楽しめる余裕のある「今」なんてのが理想ですかねえ。

仏教における救いとは私がブレなくなる教えではなく、どこまでもブレる私やブレなくなろうと意地を張る私が知らされて、そのまま包まれる救いではないでしょうか。
私がブレないのでなく、教えがブレない。私はブレなくなって救われるのでなく、ブレるままに、いつでもブレない教えを拠り所に生きていく。

「ブレてもいいよ、いつでも帰っておいで」という世界

があるのが何よりの安心かもしれません。

そうであれば、日々刻々と変わる世界と自分がいかにブレようと、いただいたご縁の中で「こうしてみたい」「こうしてみよう」という主体性を失わずにのびのびと歩んで行けるのではないでしょうか。

懸命に頑張って生きなくたって、力を抜いて、今日はどんなご縁かな?それに対し私はどうしようかな?と日々是好日な新鮮な毎日を。

「生きていく意味が分からず苦しい」とは言いながらも今は意味が分からず生きているでしょう。
つまり「意味など分からなくとも生きられる」ということです。わかったから生きているではないのです。わからなくてはいけないものでもないのです。

ただ今生かされてるというこの瞬間の事実から、自由な人生を。意味が先でなく、事実が先。意味は自由です。

「これでいいのだ!」とやりたいようにやっちゃってください。やりたいことがなけりゃなんもしなくたってかまいません。そのうちなんかしたくなりますから。

日々是好日

{{count}}
有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
このお坊さんを応援する

千字で読めるお釈迦さまの教え

お釈迦さまは「長期的に人生を考えましょう」とは言いませんでした。でも「何かをすると必ず大なり小なり影響が出ます。その影響にはすぐ出る影響、近い将来にでる影響、遠い未来にでる影響の3つがあります。だから善い生き方をして、よい影響を出しましょう。」とは言いました。ただ、これは「今をどう生きるかの蓄積で将来に影響が出ますよ」ということですから、あくまで今を丁寧に生きましょうという話です。

先を見越して計画を練るのは、心の平穏を目指す仏教ではなく、生産性を最大化する娑婆の発想なんですね。娑婆で生活するには後者の考え方も割合として必要です。ですが、今回は心の平穏を求めるご質問ですので前者の発想で回答します。ハイ、長期的な視野なんざ忘れちまいましょう。
(じゃあ今、遊んで暮らせばイイや!は違います。生きることに繋がらないから)

物事には原因と結果があります…と言うと、幼少期の家庭環境ガーみたいな話になりがちですが、それこそおっしゃるようにウンザリするだけです。だからお釈迦さまは過去や過去世に原因を求めることを止めました。今ある環境を調えることは大切ですが、過去は考えても仕方ないんです。

仏教での因果論は元々、心のシステムの話です。

・苦がある。なぜ?取(しゅ)があるから。なぜ取がある?無明(むみょう)だから。

・無明とは根本的に分かっていないこと。本来、無我であり空なのに、自分にこだわる。
→自分にこだわるから、あれは良いこれは悪い、どっちが上かみたいな脳ミソの『ひと言多い』が生まれる。この好き嫌いや自分ルール、認定や判定などなどが取。
→取があるから、思い通りならない、納得できない、嫌、許さんなどの苦が生じる。

・だから、苦を滅するためには取を止めるべし。つまり熱いと感じたら熱いと感じたままでええねん。熱いから嫌だ!とか、熱いほうが偉いのよね〜と頭の中で進展させない。
→取を止めるためには、正しい智慧を得よう。智慧とは「空を説明できます」みたいな知恵知識の話ではなく、自分の考えを深めるのでもない。取を止め、考えを余分に発展させなさるなという話。
もっと言えば俺が俺が私が私がではなく、仏としての自分に目覚め、仏の生き方を習慣にするのが智慧。

生きる目的とか価値観なんざ煩悩なんです。お釈迦さまがそう言ったもん。そう知覚するのが心穏やかに生きるための第一歩です。

{{count}}
有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

お二方の回答に、また色々と自問自答していますが、本当に感謝しております。ありがとうございます。

「生かされている自分、ブレている自分、頭や心ではなく娑婆の中で現実生きている自分」

それに対し、自分という不安定なものを中心にしたり、そこを突き詰めすぎることなく、教えや原則的なものに立ち返り、「ブレても大丈夫。きっと私はそこに戻ってこれる。」と日々感じられる自分を目標として、無意識に息をして生かされてみようと思いました。

同じような悩みを抱えている人に、少しでも安心や共感が芽生えてもらえたら…そんな気分です。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ