由来について質問です
仏教は面白い。
インドから北周りに来日した文化ですが、
その途中で、様々な宗派がありますよね。
○○仏教とか、○○教とか。
あ、日蓮大聖人を正当と見ている学会もそうですか。
私の名前は、数ある仏教の中でも密教に由来します。
「強く、賢くあれ」という願いが込められたものです。
「弘」の字が含まれていますから。
名前負けしないような生活を送りたいと思っています。
公開しても私自身はかまわないのですが……やめておきます。
何をもって強くありたいのかがよくわかりませんが、少なくとも1分野で力をつけたい、強くなりたいと思っております。
何をもって賢くありたいかは、よく分かっています。私の外見、すごく賢く見えるそうです。なので、目標は「自分の外見に負けないくらい」です。
賢さは表情に出るので、終わりのない戦いになるでしょう。それは百も承知です。
内向的、と言えば聞こえは良いですが、心療内科で「うつ傾向」と診断されています。
だから、することがない時はひたすら何かしらについて考えております。
自分自身の弱さは勿論、自分を取り巻く社会のことも。
さて、自分の姿勢は曲げないつもりでいますし、曲げるのも難しいのですが、ふと、疑問に思ったことがあります。
・神仏習合前の仏教において創世記とは、ガウタマ・シッダールタ王子を出家に導いた四苦でしょうか。
・王子が悟りを開く直前に悪魔の囁きがあった、とありますが、仏教における悪魔とは何でしょうか。
不躾ではありますが、よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仏教って面白いですよね
・他宗教の創世記に当たる話は「過去七仏」だと私は認識しています。お釈迦さまよりずっと昔に七人の仏がいたという話です。仏は造物主ではありませんので天地創造も国生みもしません。しかし長阿含経(じょうあごんきょう)というお経の構成上、明らかに創世記を意識して読ませる構成になっていると私は解釈しています。
過去七仏の特色は「過去七仏のうち最初の仏さままでは伝承があるけど、それ以前のことは不明」というスタイルをとっており、「どうやっても分からないことは議論しても無駄だし、ましてや心の拠り所になり得ない」という仏教の性格を象徴しています。
世界の始まりは分からないというスタイルは、仏教以前のインド神話に見られる発想です。神々が生まれた時にはすでに天地があったから、神々にも分からない…面白いでしょう?
さらに面白いことに、インド神話には複数の矛盾する創世記が共存しています。聖書みたいな造物主による創世記の話も存在します。真理は1つではないのです。
そんな自分と違う考えを認め、尊重し合えるおおらかさが仏教に受け継がれているわけですね。
だから仏教はいくらでも自分の姿勢を変えます。観音さまは三十三通りに変化します。三十三の化身の中に真っ直ぐな一本の芯が通っているので、いくら変化しても曲がりません。
実際、お釈迦さまの時点で神仏習合の傾向が見られます。一般の人に語る時は一般常識である仏教以前の宗教や神話を意識し、一般人の目線に合わせて語っています。その懐ろの深さ、広さ、大きさが仏教の強さです。
・仏教に当たる悪魔は心の弱さを象徴しています。要するにお釈迦さまにも色々と葛藤があったわけですね。また、日本に入ってくるよりずっとずっと昔の仏教では、出家者を世俗に戻そう戻そうとするベクトルを堕落と見なし、悪魔で象徴することもありました。
さて、仏教は仕事や受験で結果を残す能力を求める宗教ではありません。同じカシコサでも世間的な頭の良さを知恵、仏教的な賢さを智慧と書き分けます。強さも世間的な強さとは別物です。
せっかく密教に由来する名前をいただいたのですから、仏教的な智慧や強さを目指していただければ幸いです。
お釈迦様の教えによれば、この世は常に移り変わる世界です。ですから創世というものは無く、表現することもできないくらいの遥かな昔から今まで、そして遥かな未来永劫まで続いている世界です。
お釈迦様が瞑想している時に十の悪魔が妨害しようとしました。
第一の悪魔軍、欲望
二、嫌悪
三、飢渇
四、渇愛
五、憂鬱と眠り
六、恐怖
七、疑惑
八、偽善と強情
九、正しい方法では無く得た利得と名誉と尊敬と名声
十、自分を褒めることと他者を貶すこと
つまり、お釈迦様の心の中のことなのです。
ちなみに、悟りを得た後で梵天という神様に人々に布教するようにお願いされました。
この梵天はお釈迦様の心の中に現れた神様です。
人の心には悪魔も梵天も存在するのです。
悪魔を制して、梵天に従って生きていきたいものですね。
質問者からのお礼
【大慈様】
「面白さ」を魅力的に引き出してくださり、
お名前通り、大きな慈悲を感じました。
私が特に面白さを感じたのは、有名な「芥子の実」のお話です。
亡骸を抱えた母親に「死人を出していない家庭から芥子の実を貰っておいで」と言い、
それに倣った母親はやがて、「絶望は乗り越えるものだ」と気付き、
仏門に入りましたね。
おそらく、その母親にとっての悟りは、「絶望を乗り越える」ことです。
仏教でありながら、その根底は、まさに「考えさせること」「気付かせること」で、
「教えを説くこと」は本質ではないのかな、と思いました。
本当に面白いです。考え甲斐があります。
こうして、少しずつ「智慧」をつけていきたいと思います。
【聖章様】
確かに、文化・文明に終着駅はありませんね。
半年ほど前の質問で、「法=かくあるもの」と解釈しました。
(同時に、「法律=かくあるべきもの」と解釈しました。)
まさに、その「法」ですね。
今、ようやく聖章様の書き込みで、ヒントを得ました。
「川を去るものは魂だけじゃないんだ。時間もそうなんだ」と。
半年前は「法=『さんずい(川)』+『去る』=魂」と、凝り固まっていました。
挙げていただいた十の悪魔軍に、「おや?」と思うものがございます。
飢渇です。
これは、おそらく断食修行を40日もの間続けた直後、
瞑想に入る前ではないかな、と思われます。
断食修行の後、琴の音を聞いて、自分を弦に例え、
「やりすぎれば切れる。緩むと響かない」
的な言葉を残していらっしゃいます。
そして村娘に差し出されたヤギ乳を口に含んだ、と。
私はサンスクリット文字を読むことができないので、
文献を読み取ることができません。
なので、おそらく、ですが、当時は仏陀という名前でしたか?
仏陀のお弟子さんがそのインパクト故に
「飢渇」を思わず入れてしまったのではないか、と思われます。
しかし、理にかなっていますね。
「欲求」は、我々は生物なので神の導きであり、
「欲望」は、まさに悪魔のささやきです。