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会社を辞めようと考えています。

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うつで休職して一年と半年近くになります。

かなり元気になってきました。そろそろ仕事に復帰出来そうだと感じてきています。
ただどうしても 以前の会社で復職する気持ちになれません。以前の会社に戻るとまた休職に陥ってしまうと思います。

転職したいのですが、これもいまの状況では現実的に難しいと感じます。
また、息子がアメリカの大学に合格し秋から留学する事になり大金がかかります。息子も心配しています。

どうしたら良いかわかりません。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の心を学ぶ

人間の苦しみの最大の原因は自分が自分でありながら自分の心が独り歩きして何をしているか自分で見る目がないことです。
坐禅を勧めます。
ただし、明眼の正師でないと坐禅は役に立ちませんので、井上貫道老師という方が都内で月に数回坐禅会を開いておられます。
参禅をお勧めいたします。
考えは考えでもってぬぐおうとしてもぬぐわれない。
泥水で泥を洗うようなもので決してキレイにはならないのです。
人間のアタマは考えというペダルをこぐばかりではなく、感受というペダルをこいでいる状態もあるのです。
考えのペダルをこいでいるのは二次的、セカンド、後追い、脳内フィルター越しに眺めた世界でチョット遅いのです。
五感で今の目前の事実をダイレクトに感知することが人間にはできるのです。
事実を直接、感知・感受することです。
事実は、いつでも新しいですし、人間の考えはそこに介入していませんから、人を苦しめることがありません。
想念に生きると人は苦しいです。
想念から脱して、現実の実際の事実と共に生きる道があります。
それが禅であり、想念から救われる世界です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。正直申し上げて今の私には仰られている事がわかりません。座禅をしてみます。

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