hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

心のととのえかた

回答数回答 4
有り難し有り難し 77

 心のととのえかたを教えてください。このサイトへの相談から少し心が落ち着いてきました。ありがとうございます。
 禅にひかれ、本も気に入って読んでます。簡単にできる座禅とか、心のととのえかたについて教えてください。 
 よろしくお願いいたします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

元々が調えられた心であることに気づく

およそ多くの人は悟りを得んとするに、心を❝調えよう❞とする。
世の中にも禅の本として心を調えるべきことが説かれた書物が沢山出ている。
ところが、ここに大きな落とし穴がある。
「調えよう」とする行為自体に着目して頂きたい。そこにワンアクションが為されている。「〇〇しよう」と動きを起こすと、そこに有為、はからいが起こるのである。
「心を調えよう。」響きとしては美しい。
だが、実際に心の中では何がなされているかを熟考して見抜いて頂きたいのである。
この心身は本来が成仏であり、元々が脱落の身心(悟)であり、人為的なはからいが無ければ人間はいつでも最上無為、安穏なのです。
立派な理論や考え事なども握っていない時ほど人間は安らかなのです。
これからそうなろうとしてアクセルを踏むことは、当然はからいが作動する。
脳内アクションのアクセルを踏むことで、人為の自我エネルギーがそこに注がれ始める。
それが思考、思慮分別の道をドライブすることになり、それは同時に仏と真逆の道にむかって車を走らせている姿と言える。
人が安らぎや悟り、仏教による恩恵にあずからんとして、悟るために「こうした方が良かろう」と、はからいをする、設定をしてしまうことこそが悟りに向かわせない最大の「事前設定」のなのです。
人の足跡が無い雪景色というものは大変清らかな雪である。
それを仮に成仏、悟りとするならば人の足跡が無いからこそ自然で清らかな雪景色です。
自然の雪景色を損ねないように、手を付けたり、足を踏み入れたらたちまちそこに人為的な跡がつきます。
これから禅を学ばれるならば、この道理をよく思いを廻らして頂きたいのです。
世の禅の書物や、著名な仏教学者は、もっともらしい理屈を説く者ばかりです。
その薬を塗り続けて生老病死という苦が根底から治らん、苦が無くならんという事はその薬はまがい物である場合もある。
立派な論、もっともらしい論でも実際に救われなければ、その論自体が間違いであったり、解釈した人が間違えているということは禅、仏教の業界には大いにあると私は、自分の失敗体験から強く申し上げておきます。
仏教は理論、理屈、説を学ぶものではありません。
自分が救われる確かな教えをのみを求めることをお勧めいたします。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

Re:心の調え方

心というのは、それ自体を直接見たり触れたり出来るものではありません。
ですから私達は様々な形に心を込めることで、心を調えてきました。
例えば、茶道や剣道など「道」のつく文化は、殆どがその形を収得することを通じて、心を調えることを目的とした文化だと言えます。

ですので何も坐禅だけが心を調える唯一の方法ではありません。

ただ心を調える様々な方法に、一定の共通するメカニズムはあると思います。
それは何かと言いますと…。
先ず身の回りを調えること。物理的にも余計なものは不要です。
次ぎに姿勢や呼吸など、すなわち自分の身体を調えることが重要です。
全てに於いてフォームが調っていないと、また無駄な動きがあると心も調いません。
そして目の前の事に集中して、余分なことを考えないことです。
そうすると自然に心も調ってくると思います。

{{count}}
有り難し
おきもち

昭和39年生。昭和62年佛教大学卒。

はきものを

揃える。これは禅宗のお坊さんの言葉(詩)だそうですが、読んで「やられた!」と思うほどです。
学校の校長先生が、よく朝礼で使っているようですが、それは往々にして曲解がありますので、なるべくオリジナルに近いものを読まれることおすすめします。

 あとは…やるか・やらないかです。

{{count}}
有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

だいぶ勉強されているようですね

禅について本などで学ばれているようですね。
文字で学ぶのも一つですが、直接お話しを聞くことも大切です。坐禅などをしている禅宗のお寺に行かれて禅についてお話を聞くことも大切だと思います。そうしたことでより理解が深まるのではないでしょうか。あとは実際に坐禅をしてみることをお勧めします。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

 円通寺邦元師いつもありがとうございます。勇気付けられます。
 實相寺山本師ありがとうございます。無駄を省くこと私にとって課題です。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ