心のととのえかた
心のととのえかたを教えてください。このサイトへの相談から少し心が落ち着いてきました。ありがとうございます。
禅にひかれ、本も気に入って読んでます。簡単にできる座禅とか、心のととのえかたについて教えてください。
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
元々が調えられた心であることに気づく
およそ多くの人は悟りを得んとするに、心を❝調えよう❞とする。
世の中にも禅の本として心を調えるべきことが説かれた書物が沢山出ている。
ところが、ここに大きな落とし穴がある。
「調えよう」とする行為自体に着目して頂きたい。そこにワンアクションが為されている。「〇〇しよう」と動きを起こすと、そこに有為、はからいが起こるのである。
「心を調えよう。」響きとしては美しい。
だが、実際に心の中では何がなされているかを熟考して見抜いて頂きたいのである。
この心身は本来が成仏であり、元々が脱落の身心(悟)であり、人為的なはからいが無ければ人間はいつでも最上無為、安穏なのです。
立派な理論や考え事なども握っていない時ほど人間は安らかなのです。
これからそうなろうとしてアクセルを踏むことは、当然はからいが作動する。
脳内アクションのアクセルを踏むことで、人為の自我エネルギーがそこに注がれ始める。
それが思考、思慮分別の道をドライブすることになり、それは同時に仏と真逆の道にむかって車を走らせている姿と言える。
人が安らぎや悟り、仏教による恩恵にあずからんとして、悟るために「こうした方が良かろう」と、はからいをする、設定をしてしまうことこそが悟りに向かわせない最大の「事前設定」のなのです。
人の足跡が無い雪景色というものは大変清らかな雪である。
それを仮に成仏、悟りとするならば人の足跡が無いからこそ自然で清らかな雪景色です。
自然の雪景色を損ねないように、手を付けたり、足を踏み入れたらたちまちそこに人為的な跡がつきます。
これから禅を学ばれるならば、この道理をよく思いを廻らして頂きたいのです。
世の禅の書物や、著名な仏教学者は、もっともらしい理屈を説く者ばかりです。
その薬を塗り続けて生老病死という苦が根底から治らん、苦が無くならんという事はその薬はまがい物である場合もある。
立派な論、もっともらしい論でも実際に救われなければ、その論自体が間違いであったり、解釈した人が間違えているということは禅、仏教の業界には大いにあると私は、自分の失敗体験から強く申し上げておきます。
仏教は理論、理屈、説を学ぶものではありません。
自分が救われる確かな教えをのみを求めることをお勧めいたします。
Re:心の調え方
心というのは、それ自体を直接見たり触れたり出来るものではありません。
ですから私達は様々な形に心を込めることで、心を調えてきました。
例えば、茶道や剣道など「道」のつく文化は、殆どがその形を収得することを通じて、心を調えることを目的とした文化だと言えます。
ですので何も坐禅だけが心を調える唯一の方法ではありません。
ただ心を調える様々な方法に、一定の共通するメカニズムはあると思います。
それは何かと言いますと…。
先ず身の回りを調えること。物理的にも余計なものは不要です。
次ぎに姿勢や呼吸など、すなわち自分の身体を調えることが重要です。
全てに於いてフォームが調っていないと、また無駄な動きがあると心も調いません。
そして目の前の事に集中して、余分なことを考えないことです。
そうすると自然に心も調ってくると思います。
はきものを
揃える。これは禅宗のお坊さんの言葉(詩)だそうですが、読んで「やられた!」と思うほどです。
学校の校長先生が、よく朝礼で使っているようですが、それは往々にして曲解がありますので、なるべくオリジナルに近いものを読まれることおすすめします。
あとは…やるか・やらないかです。
だいぶ勉強されているようですね
禅について本などで学ばれているようですね。
文字で学ぶのも一つですが、直接お話しを聞くことも大切です。坐禅などをしている禅宗のお寺に行かれて禅についてお話を聞くことも大切だと思います。そうしたことでより理解が深まるのではないでしょうか。あとは実際に坐禅をしてみることをお勧めします。
質問者からのお礼
円通寺邦元師いつもありがとうございます。勇気付けられます。
實相寺山本師ありがとうございます。無駄を省くこと私にとって課題です。