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人間関係のトラブルで行き詰まりました

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私は現在、あるSNSで共通の趣味を持つ人同士が集まるサークルに5年程所属しています。半年ほど前、メンバーの1人が急病のため亡くなってしまいました。

つい先日、その方の誕生日を迎え、私はサークルの仲間の1人に「今日は〇〇さんの誕生日だね…。何だか早いね」という内容のメールをしました。
すると、その仲間から「なぜわざわざ思い出させるようなメールをするのか。親切のつもりなら、お前の自己満足であり押しつけだ」という怒りの返事が届きました。

その仲間も私も、亡くなった方とは付き合いが長い者同士でした。
その場で「傷つけてしまい、申し訳ない」と謝罪したのですが、聞き入れてもらえませんでした。
その後、時間を置いて再度連絡を取り、改めて謝罪したのですが、
「お節介するな。一切関わってくるな」と拒絶されてしまいました。

自分の不用意な一言でこのような事態を生んだことが、とても情けなくてショックで動けなくなってしまいました。
彼の悲しみに気が回らなかった自分が、憎たらしくて堪りません。

これまでにも、私の人付き合いの不器用さについて、サークルの主宰者の方やこの仲間から度々指摘や叱責を受けてきました。
その際は周囲の助けも借りながら言動に気を配り、ようやく少しずつ仲間にも溶け込めてきたのですが、その矢先にこんな事態を引き起こしてしまいました。

今回のことで、人付き合いを続けていく自信もサークルを続ける気力も無くなってしまいました。このままではいけないと思うのですが、この先何から始めていけばいいのか全く分かりません。

家族の前や職場では平静を装っているのですが、次第に「顔色が悪い」「どこか元気が無い」と気づかれるようになってきました。
一人になると気づいたら泣いている…ということも増えてきました。

何か自分を変えるヒントが見つかれば…と思います。
文章が長くなってしまい、申し訳ございません。
ご回答の程、よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

SNSは会話でも対話でもないと学びましょう。

私はそう感じています。
だから、直接トーク以外、お互いにほとんど自己の経験上の人間関係とやり取りをしているだけなのです。
だから、ちょっとした言葉でも相手にとってはデリケートな領域に侵入することになるので「オレの領域から出て行ってくれ」という事態が起こるのです。現実世界でブロックなんてできるでしょうか。そんな機能もポチもできやしません。
人間はそもそも現実の実物、ご本人様と直接対話、直接対談以外はほとんど自分の相手に対する幻影と話しているだけです。
これは究極の話ですので、意味が伝わらないかもしれませんが、ここでのやり取りにしたって、そもそもあなたにとってこの丹下という坊主も一体何者でしょうか。
よく知らんでしょう。
よく知らん人間からいきなり文字がやってきて、なんかお説教めいたことを説いている。
そもそも「誰だこいつ」こそが健全ですよ。(笑)
現代人はSNSによって、会話、対話、コミュニケーションが今までになかったことが可能になったために、おかしくなっていると感じています。
これはこれで過渡期なのでしょう。
あなたの優先順位を
「その人とSNSで関係を修復しよう」ということより、
「人間としてもっと生身の人間との現実のやりとりを重宝しよう」ということを優先させてみてください。
すると、結果的にあなたがSNS界という脳内WORLDから解脱、脱却して、リアル、現実、ホンモノだけを相手にする脳にカスタム、いや、帰ってくることが出来ましょう。
生身の人間の会話であれば、そこで会話の続きができる。
「いや、そういう意味じゃなくて、ほら、あの人さぁ、とってもイイ人だったよね。何か、あの人から教わったことが沢山あるから、色々語り合いたいんだ。」という事だって、できたはずです。
手紙、電話、直接対話、その人との関係修復はいくらでもできるのではないでしょうか。
それが、あなたがコミュニケーションを人間として人間らしくするという事ではないでしょうか。会話に終わりはありません。ケンカ別れの後でも会話は続けられるのです。
あなたがどこかで終わらせてしまっているから、不完全コミュニケーションの被害者意識が生じているだけなのです。
あなたが、北朝鮮との対話を進めるのです。
(え?オレが?)その人との緊迫した両国関係を改善させるスキルが今、あなたに問われているということです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お返事を下さり、ありがとうございました。

そのサークルでは毎月1回、メンバー同士で集まるオフ会を開催しています。

今後はSNSやスマホなどから距離を置き、オフ会でその方と会ったときに直接話し、もう一度自分の気持ちを伝えてみようと考えています。
それでも良くならなければ、改めてこのサイトでご相談させて頂けたらと思います。

先日はご相談に乗っていただき、ありがとうございました。

あれから、例のオフ会に参加したのですが、例の仲間は欠席しており、会えませんでした。
また、今回の出来事の話が広がったからなのかは不明ですが、自分はもう誰も近寄らない孤立した存在になっていました。

ただ、それは誰も悪くなく、すべては自分の言動が招いた結果だと思っています。
今はオフ会からもSNSからも完全に離れ、家族以外に誰とも連絡を取らない生活をしています。

一方で、SNSから離れてみて、自分はこの人間関係に過剰に依存していたとも気づかされました。ある意味、こうなって良かったのかもしれないな…とも思います。

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