物事の意味
よくこの世の出会いには意味があるといいますが、自分の成長のためであったり、人の出会いや関わり、住まいもそうした意味があるのですか?
因果応報といいますが、自分のしたことは自分に帰ってくるということも、悪口を言えば伝わって自分に戻ってくることから連想しやすいですが、いましている努力、苦労も報われるということでしょうか。
お伺いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
生きていることの意味と、因果について
二つのことをお尋ねなのでしょうか。
一つ目の生きていることや、人生のなかの出来事に意味があるか、ということについて。それは、仏教にあうためということができます。私たちは幸せを求めて生きていますね。普通、幸せとは、経済的、家庭的、健康的、社会的な欲求が満たされることであるはずです。こうした意味の幸せを実現することが人生の意味とするのが私たちですね。しかし、仏教典籍を「幸」で検索しますと、仏教に出会う、または高僧に出会う(これも仏教に出会うのと同じ)ことだけが幸せで他の幸せはありません。
私たちが願う幸せは結局は我欲であって、究極的には自分がよければそれでよい、というものだからでしょう。そして、この意味での幸せは果てしないものであり、移ろいゆくものだから、決して人を真の意味で幸せにしないと仏教は教えます。言い換えると仏教は、生きとし生けるに常に間違いのない幸せを恵むということです。だから、生きる意味は仏教に出会うため、目の前に起こっている出来事はそれに目を向けさせるために起こっていると考えます。
二つ目の因果応報ですが、これはその通りです。その通りですが、善行が楽しい結果をもたらす(善因楽果)またはその逆(悪因苦果)は、いつ結果を生じるか分りません。次の境涯かもしれませんし、次の次のまた次の境涯で結実するかもしれません。しかし、かならず結果と引くとされます。現前の結果らしきものに左右されず自己の心を正しくすることに心がけることが大切だと思います。
意味は自分で良い意味を見出せばよいもの
ものごとには最初には意味なんてついちゃいません。
たとえばこのサイトのページは何色でしょうか?
白ですか?
いいえ。
乳白色でしょうか?
いいえ。
答えは「ただ、この通り」です。意味づけは後からです。
第一時点では、あらゆる言葉の意味や価値評価が何もついていません。
白色とか名づけるのは、その❝直後❞の事なのです。
それが、ただの事実ということです。
はじめに事実ありき、その後に言葉ありきなのです。
はじめは意味はついていません。
➀ファースト時点では、ただ出来事に出逢っているだけ。感受しているだけでしょう。
②セカンドの時点において、アトからあたかもプリクラで別人に脚色して原形をとどめないくらいに意味を付け加えてデコデコ脚色して塗りたくって、人それぞれが自分の中で意味を付け加えているだけでしょう。
出会い頭の事実はその通りだという事は知っておくと良いでしょう。
事実はいつもすっぴんなのです。
【事実は一つ 解釈が無限】というように、意味づけは後付け、セカンド(二次的)人それぞれなのです。
ですから解釈というものは、どのようにでも受け止められるものであるので、チョコレートも悪く言えば虫歯になるニキビができるハイカロリー。
良く言えば美味しい、香り高い、ギャバでストレスフリーという意味にもなるのです。。
だからこそこの道理を上手に使えた人ほど、どんな出会いも意味を上手につけて、よい意味をつけたり、自分で良い意味を見出していくことが人生を生きていく上では望ましいよ、ということです。
私が海の無い埼玉県に生まれたのは、たまたまうちのオトンとオカンがサイタマンだったからで、その先代さんがあーしてこーして、あんなんなってこんなんなって巡り巡って私もサイタマンになったのであります。
つまり、縁が働きとなっているという事はモチロン言えます。
種は撒かなきゃ花は咲かない。
水をやらねば花は咲かない。
お日様が無ければ花は咲かない。
台風時に外に出しておければ、折れてしまう。
あなたが苦労を肥やしにするか、毒にするかもあなたの意味づけ解釈次第。
私は、そういう意味づけの世界は仏法ではないから、意味づけに酔う事もしない。
只、ただ、只管。
その通りに感受することで安楽な心が成就されます。