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先祖供養、霊の存在について

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有り難し有り難し 39

 私は仏教徒の家庭に生まれ仏教系大学を卒業し、いまは洗礼を受けたクリスチャンの身ですが、昔わからなかったことが、いま仏教から学びつつあります。
 このサイトからも相談を通して自分自身と人生の道筋を見つけつつあります。
 そこで質問ですが、クリスチャンの私がお坊様に質問やお話をいただくのは、罰当たりでしょうか?お寺に入るのはダメですか?
 よく宗派、信仰が違うと異教徒扱いをしたり、罰当たりみたいなことをいう新興宗教もあるので。
 私は過去、金縛りにあったり不思議な体験をしたこともあります。霊の存在、自分の周りにどんな霊がいるのか、悪い霊にあってしまった場合、どうすればわかるのか
 先祖供養などで、子孫に災いなどが起こるのか教えてください。お願いします。
 


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

目は何でも見える 耳は何でも聞こえる これを宗という

神さまや仏さんというのはそんなチンケな器の小さい存在ではあってはいけません。
私の親友はクリスチャンもいます。
自由な交流をしています。
このサイトにもお友達がいます。
宗教が違うからと言って付き合ってはいけないなどというようなバカバカしい教えは無視して大いに人間は交流を深めるべきです。
そもそも人間はそばだってうどんだってラーメン食べたって何も問題はないでしょう。
コーラ飲もうが、サイダー飲もうが、お茶飲もうがなんてことはありません。
宗派が違うからと言って他を敵対視する宗教に所属している彼らの宗教心は宗教心とは言わず、敵対心なのです。
過激思想団体と言っていいでしょう。
他の宗教を認めない宗教団体はカルトが多いから入ってはいけません。
過激な宗教は神さまや仏さますらも「本当はこうだったんだ」と自分たちの都合のいいように塗り替えたり、キャラを変えたりします。
そういう神様やらは結局正体が「人間」なのです。
なぜならアヤシイ新興宗教の大半は、教祖や教団幹部によって脚色された神、都合のイイ神様、人間サマですから、アヤシイ宗教に入信してしまった彼らは最初から絶対にあたりが入っていない宝くじを買わされているようなものです。
霊という事をあなたは誤解されているようですが、霊とは私たちの中の無き人たちに対する想いの事です。
内側から沸き起こる他存在への思いを霊魂と言っているだけです。
あらゆる宗教の中で仏教はもっとも理知的なものです。
仏教は仏教でもそこに所属する人間はピンからキリまでいます。
教えも解釈によってバラバラです。
あなたがこの人はマトモだなと思える人を師とするのです。
仏教なら何でも大丈夫妥当と思って学びに入ったその先がフランス語(仏語)勉強講座だったらお笑いです。こちら側も相手を見極める必要があるのです。
空想や想定、根拠のないものは、ちゃんと理知的な説明をしてくれる人のもとで教えを教わることが良いでしょう。経典に書いてあるからとか言って、方便の為の教えも全て現実だと思ったり、思わせている人は空想の世界に導く人ですから、話を聞くにしても注意が必要です。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

クリスチャンでも大丈夫

クリスチャンでも仏教のテクニックは利用できますし、大歓迎です。
どうぞお寺にお参りください。
まぁたしかに、仏教でも一部の宗派で、異教異宗に厳しい祖師もおられましたが、現在では、伝統宗派でそこまで厳しいことはいわないでしょう。
霊の存在は、確かめるのは難しいです。
また、便宜上は「霊」と言ってますが、それらは、餓鬼や天などの生き物だと思います。
私たちと次元が違うので目に見えないのかもしれません。
先祖は、とっくに別の生き物に生まれ変わっています。
わざわざ過去世でつくった子供の子孫に危害を加えるほど、暇じゃないでしょう。
確かめようのないことは、考えなくてよいのです。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

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