今更ながら水子供養をしてあげたい
子供達が産まれる前、初めての妊娠をした時に、産んであげられなかった子供が居ます。
お腹に居た時、本当に嬉しくて幸せで楽しみでした。
しかし、現在の主人の両親に強く反対され、結局殺してしまったのです。
決断をしてしまったのは私ですが、その時『どんなに歳を取り、認知症になったとしても、この子を殺してしまう事は決して忘れない、私もあなた(主人)の家族も私は一生この事については怨んで生きて行く。』と言った事を今でもはっきりと覚えています。
12年過ぎ、子供にも恵まれましたが、どうしてもその時の子供が不憫でなりません。
子供達の姿を見れば見る程、『産んで居たら…』と何処か思ってしまいます。
せめて戒名と小さな仏壇を誂えてあげたいのです。
しかし、私の嫁ぎ先に相談してみたら『そんな事しなくていい。』と一蹴され、主人も心で思っているなら良いじゃん。
と言われました。
私1人だけの判断で、子供の戒名と仏壇を揃えてあげる事は可能でしょうか?
私の最期の望みは、もし、その時の水子が
河辺に居て、あの世に行けないのであれば、私が代わりそこに残ってでも成仏して欲しいのです。
もう一人、確かに居た子を死ぬまで忘れたく無いのです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
現実的な方法として
七妓さん、初めまして。
お答えさせていただきます。
>私1人だけの判断で、子供の戒名と仏壇を揃えてあげる事は可能でしょうか?
不可能ではないとは思います。しかし、拝読した文面を察するにご家族のご理解が薄い状況では金銭的にも負担になり、また独断でことを進めすぎると家族間での揉め事のタネにもなりかねません。
勿論、今はコンパクトで安価な仏壇もありますし、有縁の寺院のお坊さんに戒名を頂き小さな位牌のみを祀り供養する方法もあります。
ただ、もう少し現実的な方法としましては、水子供養の回向や水子供養を願意とする護摩供養(護摩祈願)を申し込まれそちらで供養されてはいかがでしょうか?
回向の依頼や護摩の申込を受けられるかは寺院により異なりますし、そもそも護摩供養は密教の供養作法ですので、真言宗、天台宗などの密教寺院でしか行われないですが、お近くで檀家さん以外の方の回向を受けられる寺院、護摩祈願を受け付けておられる寺院を探されてみてはいかがでしょうか?
観光寺院や各本山などの大きい有名な寺院で申し込まれるのも良いかもしれません。
寺院にもよりますが、一回数百円〜数千円(多くとも三千円弱)程度で供養していただけるかと思います。
そして、水子供養の回向や護摩を申し込まれ、ご縁ができたお寺に時間が許す時にでも度々お参りされれば十分に供養できるかと思います。
また、それも難しいようでしたら賽の河原にいる水子さんや先立って死んだ子供たちを救う地蔵菩薩(お地蔵さん)に手を合わしてみてはいかがでしょう。
ご近所の道の片隅に祀られるお地蔵さんに手を合わせるだけでも結構ですし、お世話をされてる方の了承が得れるなら花をお供えするなどお世話を手伝われてもいいかもしれません。
勿論、お地蔵さんのあるお寺にお参りするのもいいですし、家で水子さんのことを想い、合掌し、お地蔵さんのご真言「おん かかかび さんまえい そわか」を3回或いは7回或いは21回お唱えし、お地蔵さんを念じるだけでも結構です。
さすれば、きっと水子さんも救われ喜ばれることかと思います。
参考になれば幸いです。
水子さんの供養と、また貴女が心穏やかに過ごせますようお祈りいたします。
合掌。
命そのものをはぐくんでいくという行為
私たちはこの地球上においては生命を永遠の未来に向けてより良く活かし続けていくという使命があります。それが生命の役割です。
人間にはそれが精神的にも課せられています。
極端な話、人間が各自自身の心の豊かさ・成長がなければ、みな自分中心になって現代のように戦争、テロでいずれ破滅の道をたどるからです。
つまり水子の供養をはじめ、諸々の供養をするという事の本義・真意は、あなたがお子さんの供養をする事を通じて菩提心を持って菩薩の道を歩む=利他行を積んでいくという事でもあるのです。六道という、この世の地獄や苦しみや不安定な幸せをの無限ループを離れて、より確かな安穏・安らぎである道「仏法」に目覚めていくことを目指していくのが水子供養の真意であると言えましょう。
お子さんの事を思い出して苦しいならば、その苦しみに向き合って「あなたが・わたしが・自分が」という心を離れた「仏法」によってそれを解決することが大切です。
昨今は仏教も誤解され、自分で戒名をつけてしまう人や実名のままでという人もいます。それでは結局「自分が」という事をやっているので、仏法ではないのです。
「自分が自分が」という心が盛んになることこそ苦しみを生む心だからです。
ご主人には、自分で体を痛めたことであり自分の苦しみでもあるから、自分の人間性の維持のためにもできる範囲で供養をしていくということを事をお伝えし、家計に負担をかけないという事もお伝えして理解をしてもらうことです。家に仏壇を祀るというのは家の中に自分達よりも偉い存在をおまつりするという事ですから、本当は誰の家に逢ってもよいのです。人間性を豊かさにする上でも尊い行為です。仏壇はなくとも、小さなお地蔵さんを祀るとか現在の経済的に負担のない程度に祀ってみてはいかがでしょうか。水子供養自体は悪いことではありません。自分の身内を供養するのは当然です。
いくら素晴らしいことでも「自分のやりたいようにやりたい」ということを強行するとそれがかえって障りになってしまうことが時としてあるもの。
尊い行為で争わなければならなくなったら本末転倒。仏法とは言えない面があります。
「しかるべく」「あるべきように」「ただしいなされ」というものが本当はどういう事であるかを、大きく、大きく考えてみましょう。
地蔵様は慈悲の象徴。ワタクシ、自分のルールを離れた存在。
慈悲をテーマにご修行を。
怨みを募らせてもお子さんは喜びません
仏教では年齢を数えるとき、この世に生まれ出た時を1才とします。つまりお母さんのおなかの中に命が宿った時を、人生のスタートと考えます。そして十月十日を約1年と数えるわけです。いわゆる日本独自の数え年の考え方です。この世に生を受けた年齢ということで、享年ということもあります。
お子さんを失わざるを得ない状況に追いつめられたことは大変残念ですが、その時の事を思い出して、怨みを募らせてもお子さんは喜びません。先に生まれたものの都合で、あなたを世に出してあげられなかったことをお詫びし、同じことが起こらない国にして行くことを誓って下さい。
浄土真宗では胎児も人間としてのスタートを切った人と考えて、皆さんと同じ法名を付けさせていただいています。当寺の納骨施設安穏堂にも同じような方のご遺骨が納められていますし、ご自宅でお仏壇に納められている方もおられます。一度近くのお寺さんで相談されて見てはいかがでしょうか。
質問者からのお礼
回答をありがとうございます。
近くのお寺で相談を一度したいとは思っているのですが、なにぶん田舎の地域柄なのか、檀家寺な事もあり、相談した事が嫁ぎ先や主人に知られて、反対されたり妨害されたりするのが怖くてなかなか相談が出来ない状態でもあります。
殺してしまった子供は、私が、例え1人ででも供養してあげたいとずっと願っていた事でもあるので、何としてでもしてやりたいのです。
全ての手続きや、その為にやるべき事を全て知っておけば、例え反対されても妨害されても、1人でも供養出来るのではないか……と。
自分自身に対しても含め、まだまだ怨みの気持ちを無くす事は難しく、いつか穏やかな気持ちで、あの時の子供に一目でも会う事が出来たら…と思っています。