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学校で

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自分の自転車がいつも倒れています
やってる人はだいたいわかります。
どっちかというと自転車を壊すということは、親にいく気がします。どうしましょうか、、、あと学校やです


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

学校がいやですについて

はじめに自転車のことについて、手短に私の考えを述べます。他のお坊さんがおっしゃるとおり、黙っていてはいけないと思います。実際上の危害を及ぼされていないなら、「あほはほっておく」という考え方もあるでしょうが、そうではないのですから。ただし、学校側がまともにあつかってくれるか懸念するところもあります。写真などに残して客観的な証拠を持っていてくださいね。

さて、学校がいやなのは何故なのでしょう。それが分からないとなかなかお答できません。たぶん同級生との人間関係がいやということだと思います。陰湿なイジメを受けているなら、やはり学校に言わなければならないでしょう。そうではなく何となくなじめないということでしたら、友達を作っていく努力も大切だと思います。クラブ活動に参加したり、音楽を始めてみたりすると、他者との関わりのなかに楽しさが見つけられるかもしれません。

私が小学生の頃の毎週見ていたテレビ番組「仮面ライダー」の主役、佐々木剛さんは重いやけどを負い、俳優を廃業せざるをえなくなりました。奥さんやお子さんとも別れ、実のお父上のお葬式にも出られないような日々を過ごされました。そんなどん底の佐々木さんにたったひとりだけお友達がおいでになり、そのお宅だけはスターだったころの佐々木さんと同じように迎えてくれたそうです。そのお友達は同じ俳優の石橋正次さんです。石橋夫妻だけが大海の島のような存在でした。

石橋さんは佐々木さんに生きるための前向きな姿勢を感じ取られ、声優などやけどのあとのある顔がテレビに映らないような役を紹介なさるようになりました。その後、少しずつ役柄が増えていき、芸能人としての佐々木さんがまたメディアに登場なさるようになりました。

あなたの問題とは直接関係ない話を延々と書きましたが、人間は本当の友達がひとりいれば、人生がつまらないということはないものだと教えてもらいました。

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個別相談可能
私はお坊さんといっても、ひと様に何か答えらしいものを提示できるような立派な者ではありません。むしろその逆で、しょっちゅう周りの方々にお尋ねして、教えてもらって生きています。質問について考え、答えようと悩むことで私自身が学び、僧侶として少しでも成長していけたら、と思っています。 youtube法話を始めました。私の名前ですぐ見つけていただきます。
本堂までWi-Fiの電波が届かないので、お内仏(家のお仏壇)のお部屋でお話します。

器物破損は犯罪

学校と親、教育委員会に相談を。
いじめというより犯罪に近いです。
学校にたいして、「警察に言いますよ」と伝えてください。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

いじめを無くすために立ち向かう

あなたが仮に人を殺していたとしても、あなたをイジメることは許されないのです。
明日から、自転車を停めたら彼らがそれをしにいくであろうタイミングを見計らっていい撮影場所を見つけてスマホで顔が映るように記録しましょう。
あなたと同じようにいじめや嫌がらせで困っている人たちが沢山いますから、その人たちを勇気づけるヒーローになれるでしょう。
ペンは剣よりも強し。
智は力よりも強し、です。
私も昔いじめられたことがありましたが、いじめられても、自分のネガティブな思いにだけ負けなければ絶対にいじめには負けません。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます!いじめですね。こっそり動画を撮ることにします!

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