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口臭で青春を謳歌できなかった。苦しい青春時代を後悔。

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悩んでます。助けてください。
中学1年から22、23くらいまで、約10年間
口臭の悩みでいっぱいの時を過ごしました。
24歳の今、やっと口臭の悩みから解放されつつあります。

悩んできた10年もの年月。
口臭の悩みがなかったら、どんなに素敵な青春時代だっただろうと思ってしまいます。
口臭のせいで、人に近づけず、常に人を避けていました。
人が大好きなのにもかかわらず、人を避けなければならない苦しさ。
つらかったです。。。
そのせいか、今でも友達はほとんどいません。

悩んできた10年間。失ってしまった10年間。
取り戻すことができないと思うと、つらくて。
後悔の念でいっぱいになってしまいます。
どうしたら、これから前向きに生きられるだろう。

口臭の悩みで、10年もの年月を無駄に過ごしてしまった気がしています。
学生時代、青春時代という貴重な時間を鬱々と悩み過ごしてしまいました。
もう過去へは戻れません。
もっと有意義な学生時代を過ごしたかった。。。
過去が違っていたら、今の私はきっと違っていたはず。心の病気にもならなかったかもしれない。

前向きになりたいのに、10年分の後悔に、心の整理がつきません。
口臭で悩んだ過去を前向きに捉える方法が知りたいのです。口臭で悩み苦しんだことにも意味があると思いたいのです。
その意味を教えていただけませんか。

悩みすぎて苦しいです。
助けてください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ないものをあると思ってきた。今もあると思っている。

こんにちは。おじさんは修行道場で10年間を棒に振りました。(^<^)
あなたの質問に喩えて分かりやすく言うと、修行というのは心の口臭が治る薬や治してくれる先生を探してずっと探し続けていたのです。曹洞宗の本山で青春時代を捨てて遊び盛り人生捨て十年。
通常一年で帰るのですよ。ところがこの変人は真剣に悟りという心の口臭予防歯磨き粉、歯ブラシ、リステリン、ハーブ、シソオイル、色々ためして探したけど、そこにはいなかったということを10年で学んだのです。結局プランドや名前しかありませんでした。
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「これが効きますよ~」って言ってるやつの口がクサかったらその薬は効かないという事がわかりました。
「仏教で人を幸せにしたい」といって人集めて金集めている奴は、金や地位や名声が欲しい奴だという事がわかった。
つまり、あなたの10年はまがい物を掴まされないスキル、ものを見極める眼力を養ってきた10年でもあるのです。
青春なんてそもそもどこにある。
阿川佐和子さんをみなさいな。
今も青春。ずっと結婚しないと思われてた人が今、結婚。
あなたの青春って誰が決めるんですか?あなたでしょ。
今も始まっていますよ。死ぬまで。
今を青春に出来る力を持ちましょう。
埼玉なんて常夏。トコ春。永遠の2番手3番手だからです。
目指すものがあるから、飽きがない。終わりがない。
でも、私はサイタマだから、なんて卑屈に思うからそれがサイタマ臭になる。
口臭なんてないに等しいのです。
それを気にするアタシがいただけ。
口臭で人から嫌われたらどうしよう、バカにされたらどうしようという恐怖や不安を増幅する心を持っていた自分がいただけ。
だから、今後の人生は長いのですから、自分のあらゆる苦しみ煩悩の根源である「あなたを苦しませる思い」を見つけるための10年だったのです。
あなたには分かるはずです。不安や恐怖、自己DISりする時の心のぞわぞわ。
多くの人はそれを見つめる力がありません。
私もそれに気づき、それに脅かされない心を得ました。
あなたの口臭は口臭ではなく、口臭というものを問題にする心の異臭=煩悩だったのです。
煩悩を見つめてきた10年の仏道修行。あと少しで完成です。
自分の負の思いを滅除できるのですから。TOKYO禅にどうぞ。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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