なんのために生きているのか
大切な大切な大好きな家族である猫が病気になってしまいました。
とても辛いです。
かわりたいです。
どうしてせっかく生まれてきたのに、年をとっていくのか。
どうしていずれ死ぬのに生まれてくるのか。
生まれてきてたくさんいいこともあるし楽しいこともあると思います。
でも、悲しいことや辛いこともたくさんあります。
なんで生きていくんでしょうか。
この世には人数制限があって、新しい命がこの世に誕生するためには、失われる命がないといけないのでしょうか。
愛猫がもしいなくなったら、生きていくかいがありません。
ただ、すぐ私も後を追ったら親が悲しむので、親と愛猫がいなくなったら私も後を追いたいです。
生きていくことは修行だというけれど、それなら死ねたら楽になるのでしょうか。
不健康なことをして緩やかに死んでいけたらと考えてしまいます。
頭で理解しようとしても、心が受け付けません。
悟りを開いたら悲しくなることはないのでしょうか?
できることはなんでもしてあげたい。
私と命をわけっこして、同時に最後を迎えたい。
どうして私ではなく愛猫が辛い目にあわなくちやいけないのかわかりません。
試練ばかり与えるのは、神様や仏様が私のことを嫌っているからなのでしょうか。
それとも私が悪いことをして、その報いなのでしょうか。
かわりに私の命をささげれば、悪いことはなくなるのでしょう?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
猫より自己に目覚めニャさい それを教えてくれたのが猫
修行道場で世話になった老師が言ってました。
「猫は憑くから注意を要する生き物です。」と。
最初は意味が分かりませんでしたが、たしかに本当に人間に憑りつくんです。
憑くというのは表現を変えれば、こちら側が猫に執着してしまうということ。本人が猫の可愛らしさに魅入られて陶酔してしまうのです。それが苦しみを深める。
仏教ではフコシュ戒と言いまして、酒や薬、陶酔させるもの、依存の関わりはいかんのです。上手に距離を持つことです。植物、木も距離が近い所に生えていればくっついて取れなくなってしまう。共存ならともかく、共倒れになってしまってどうするのですかニャ?🐱あなたが後追い自殺でもしようものニャら、いずれ「猫ロス症候群による自殺防止運動」が起こって、猫が人間にとっての「害獣」に指定されるかもしれません。その認定に間接的に加担することになりますニャ。
自分を陶酔させ依存させるものは酒・薬に限らずAKBでもニャーKBでも猫ひろしでも駄目なのです。陶酔、依存しない距離感が大事なのです。節度を守って自分を見失ってまで、そっちになってしまえば、酔いをこえた害。家族にも迷惑が掛かります。
猫が憑くとは、依存・陶酔の事。魂を抜き取られ健全な精神を見失う。
猫を食べる食文化がある所に生まれたら猫はペットではなく家畜になっていたでしょう。
これはうちのネコ娘も言ってますが「私のこの可愛い猫ちゃんを可愛がる気持ちがどうしてアナタには分からないの!?」という押しつけがましい気持ちをやめることで猫の憑依は少しずつ覚めます。あえて厳しく言っています。ネコ熱を冷ますのは、ご自身で自覚されるよりほかはありません。ネコはネコの命を全うしていて、あなたではニャいのです。
荒療治ですが、ネコに魅入られた自分を回復する、取り戻すのは「引きはがし」が大事なのです。冷静になって頂く為に冷たいことを言っています。申し訳ありません。
客観的目線を取り戻すのです。猫は本来天地大自然の一生命。
猫が可愛いのもあなたの為に可愛い姿をしているのではありません。
あなたのウチで飼ってきたとしても「あなたの」ものでも何でもありません。冷たいようですが猫の命は天地の命。ネコの命なのです。うちのお寺でも猫を飼っています。ですが、ネコの尊厳のためにも絶対我がものにしません。猫がよく鳥やヤモリ、トカゲを遊び殺しています。動物は平等なのです。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
尊厳、確かにそうですね。。
ただ、屠殺などについても、何かを食べるときにも、あれこれと考えてしまうことがあります。
自分が生きていなければ、その分殺される命も少ないのではないか。
たくさんの命の上に成り立っているとして、大したことない自分が生きているのは罪ではないか。
ならば何のために神様は自分を生かしているのかと考えます。
生きていることは修行で、そうしていかなければいけない定めなのだとしたら、何のためにこの世界はあるのでしょうか?
死ねば地獄、生きるも地獄なのかな、と考えてしまいます。。