愚者は存在に値するか否か
私は永遠に変わらないものが欲しいのだと思います。
歪な家庭環境、失ってしまった友情、恋、きっと寄せ集めればありふれたことばかりかもしれません。
しかし、私の人生において、あるべきものが足りない、手に入らないことがあまりにも多すぎました。私自信の力で手に入れるべきものはもちろん、自分ではどうしようもないことも含めて、欠けてばかりの半端者です。
いつまでも変わらない何かがほしい。
けれど、そんなものはどこにもありませんでした。
始まりがあれば終わりがある、そんな言葉通り、永遠という普遍的で小綺麗な存在は、この世界には一つも存在しないと、成人を越えて幾年、ようやく気が付きました。
きっと私は愛されたいのだと思います。生まれた時からずっと愛を求めて生きてきました。手に入ったとしても、それはマヤカシでした。恋情も友情も、いつの間にか遠く、手の届かないところに離れていきます。たぶん、私の方から。
好意を向けられることもなく、向けられたとしても逃げてしまう。そんな感情は知らないから。怖くてたまらないのです。
そして、一人寂しいとセンチに浸り、流せなくなった涙を求めて思いを馳せるのです。
太宰治ではありませんが、きっと私は人間失格なのでしょう。
我が儘で、愚かで醜く、卑劣で傲慢な人間擬きの私に、一体全体生きる資格があるというのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
非常に真っ当な、素直さだと感じます。
お若い様子ですが、こういった事に思いを至らせられるのは、素晴らしい事だと思いますよ。真っ当に、逃げず、自分を切り裂くような痛みも感じつつ、心情を言葉にしておられる。「永遠に変わらぬものが欲しいのです」。マジですか。私は貴方がマジだと思っていますが。
多分これは、お釈迦様の問題意識に近いのだと思います。
生きとし生けるもの、無生物であっても、永遠に変わらぬものなど無いようだ。少なくとも私の知る限りは。でも、どこかに答えがあるかも知れない。それを掴もう。
これは、私なりの解釈ですが、こういった出発点を持っておられたと思います。
また、私の属する浄土宗の法然上人は、まず勉強で「あらゆる人が救われる道はないものか」と学ばれました。お金をかけるんではなく、学ぶ事で何とか解決できないかと。で、見つけられた。「お念仏唱える事だ」と。勉強する事自体ではなく、六文字の南無阿弥陀仏を唱えることで救いになると。
この「問題意識を持つ」というのは、私から見ると、一面羨ましい状態なのです。私はオギャーと生まれた時から「お寺で、お念仏で」育てられて来ました。一種の洗脳です。ゆえに、問題意識が希薄なまま、ずーっと来てしまったのです。今でこそ、ある程度自分の言葉で語ることができますが、「この愚かな自分が生きている資格はあるのか?」という強烈な問題意識を持って仏教に接して来ておりませんでした。
仏教は、この自己と理想の乖離から始まります。様々な機根の人に向けた教えがあります。一発で当たるかは分かりませんが、学んで行かれることを強くお勧めします。
そうそう、我田引水ですが、浄土宗の「21世紀キャッチフレーズ」みたいなのの最初の一文は、「愚者の自覚を」です。もう貴方は、第一段階をクリアーしているのです(正しくは浄土宗21世紀劈頭宣言と言います)。