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愚者は存在に値するか否か

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有り難し有り難し 27

私は永遠に変わらないものが欲しいのだと思います。
歪な家庭環境、失ってしまった友情、恋、きっと寄せ集めればありふれたことばかりかもしれません。
しかし、私の人生において、あるべきものが足りない、手に入らないことがあまりにも多すぎました。私自信の力で手に入れるべきものはもちろん、自分ではどうしようもないことも含めて、欠けてばかりの半端者です。

いつまでも変わらない何かがほしい。
けれど、そんなものはどこにもありませんでした。
始まりがあれば終わりがある、そんな言葉通り、永遠という普遍的で小綺麗な存在は、この世界には一つも存在しないと、成人を越えて幾年、ようやく気が付きました。

きっと私は愛されたいのだと思います。生まれた時からずっと愛を求めて生きてきました。手に入ったとしても、それはマヤカシでした。恋情も友情も、いつの間にか遠く、手の届かないところに離れていきます。たぶん、私の方から。

好意を向けられることもなく、向けられたとしても逃げてしまう。そんな感情は知らないから。怖くてたまらないのです。

そして、一人寂しいとセンチに浸り、流せなくなった涙を求めて思いを馳せるのです。

太宰治ではありませんが、きっと私は人間失格なのでしょう。

我が儘で、愚かで醜く、卑劣で傲慢な人間擬きの私に、一体全体生きる資格があるというのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

非常に真っ当な、素直さだと感じます。

お若い様子ですが、こういった事に思いを至らせられるのは、素晴らしい事だと思いますよ。真っ当に、逃げず、自分を切り裂くような痛みも感じつつ、心情を言葉にしておられる。「永遠に変わらぬものが欲しいのです」。マジですか。私は貴方がマジだと思っていますが。
多分これは、お釈迦様の問題意識に近いのだと思います。

生きとし生けるもの、無生物であっても、永遠に変わらぬものなど無いようだ。少なくとも私の知る限りは。でも、どこかに答えがあるかも知れない。それを掴もう。

これは、私なりの解釈ですが、こういった出発点を持っておられたと思います。
また、私の属する浄土宗の法然上人は、まず勉強で「あらゆる人が救われる道はないものか」と学ばれました。お金をかけるんではなく、学ぶ事で何とか解決できないかと。で、見つけられた。「お念仏唱える事だ」と。勉強する事自体ではなく、六文字の南無阿弥陀仏を唱えることで救いになると。

この「問題意識を持つ」というのは、私から見ると、一面羨ましい状態なのです。私はオギャーと生まれた時から「お寺で、お念仏で」育てられて来ました。一種の洗脳です。ゆえに、問題意識が希薄なまま、ずーっと来てしまったのです。今でこそ、ある程度自分の言葉で語ることができますが、「この愚かな自分が生きている資格はあるのか?」という強烈な問題意識を持って仏教に接して来ておりませんでした。
仏教は、この自己と理想の乖離から始まります。様々な機根の人に向けた教えがあります。一発で当たるかは分かりませんが、学んで行かれることを強くお勧めします。
そうそう、我田引水ですが、浄土宗の「21世紀キャッチフレーズ」みたいなのの最初の一文は、「愚者の自覚を」です。もう貴方は、第一段階をクリアーしているのです(正しくは浄土宗21世紀劈頭宣言と言います)。

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一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

自分を苦しめているのは誰でしょうか。

裁く自分が自分を壊す。

裁く自分が自分を責める。

裁く自分が自分を苦しめている。  

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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