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怠ける

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よく怠けてしまいます。
皆さんは怠けないために何か意識していることってありますか?
そもそも怠けると何がいけないのですか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仲間を意識してます

部活動でグラウンド30周走るときに、みんなバラバラに走ってると3周目くらいから面倒くさくなって(ごめんなさい、ちょっと話盛りました。ホントは走る前から面倒くさかったです)、10周も走るとだんだん嫌になり、20周目には「20周メニューの日ならもう終わるのに…歩いちゃおうかな…」とヘロヘロになり、最後の方は「1周くらい誤魔化せるかな…2周は…流石にヤバいか」なんて思いながらズルズル走ってました。

でも、チームみんなで並んで走ってると、どういうわけだか割と楽に走れちゃうんですよね。こういうのを仏教では「大衆(だいしゅ)の威神力(いじんりき)」と言います。スゴイ!

だからって普段、お寺で仲間と一緒に何かをすることは滅多にないですが、修行道場時代の仲間を思い出したり、師匠やお檀家さんを意識しながらやっています。それから、実はここで回答書いてるのもその一環な部分もあります。

あと、普段着でテレビ見ながら正座してると痺れてもないのにすぐ嫌になりますが、お袈裟つけて正座すると1〜2時間の法事で足が痺れても「嫌だ!」とは感じないんです。痺れてる状態を痺れてるまま受け入れられちゃいます。

そもそも怠けると何がいけないかと言いますと、怠けずにいられない自分になっちゃうから。
やる時はやるなんて大嘘です。
大人になるとやる時なんて自分で決められません。自分の気が乗ろうが乗るまいが、やれと言われた時に全力出さないといけません。むしろ休日以外、毎日がやる時です。

でも、長いこと怠けてると怠けるのが癖になります。すると真面目にやってもだんだんムズムズして怠けずにいられなくなってしまいます。逆に、長いこと真面目にやってると、怠けてもだんだんムズムズしてきて真面目にやらずにいられなくなります。
実は、さっきの正座の話がコレです。お袈裟つけた私に真面目癖がついていて、普段着の私に怠け癖がついてしまっているのです。

もっと言えば、社会に出て集団で仕事するようになると、怠けている人は0点ではなくマイナスになります。周りのモチベーションを壊すから。そうするとどこへ行っても邪魔者扱いされるようになってしまいます。
ガチガチに常に真面目にやれとは言いませんよ。でも、適度なペースで頑張り続けられるコツは探さないといけないでしょうね。

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有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

体験してみたらいかがでしょうか。

 はぁ怠ける。いつか、「私立高校へ行っているけれど〜」と問われた方ですね。それ以降、いかがでしょうか。
 「怠ける」とはどういうことか、そもそも何故いけないのか。体験して、身を以て学んでは如何でしょうか。すでにヒントは頂いているのですから、それの実証実験です。
 お勧めは、「風呂に入ることを怠ける」です。あるいは「歯を磨くことを怠ける」。
 やろうかな、やったほうがいいよね…と思ったとき、「イヤイヤ、怠ける実験。実は怠けても大丈夫なんじゃない?」と、自分を甘やかしてみて下さい。もちろん、結果は自分で引き受けるしかありませんよ。まだ一人前ではないんですから、ほぼ全ての経験は、後々の学びに繋がりますよ。どういう学びになるかは分かりませんが。
 …きっと、集団からハブにされるでしょう。少なくとも周りから嫌がられます。それが「怠ける」を選んだ結果です。そこで「ああ俺が怠けたからだ」と気づけば最高。身を以て経験したのですから。「知ってるか?怠けると、集団からハブられるぜ。俺がやってみたんだから間違いない」と、自信を持って言えます。

 一応、解説しておきます。
①上の例で、「風呂に入る」は、もちろん「勉強する」の代用です。一日二日、風呂に入らなくても、きっと誰も(気づいても)何も言いません。
②そして、それが何日か続くと、自分は慣れてきます。自分の匂いは常に嗅いでいるので、それが標準となって、自分では感じないのです。でも実際に身体は汚れ、友達からクサイと思われます。勉強で言えば、成績が下がるけれど「どうせ、やってなかったし」と自分を正当化できますので、危機感は生じません。周りからは「あいつ、大丈夫かよ」と思われます。
③あいつ、クサイよなという話が友達の中だけでされて、あなたはハブられます。勉強で言えば、落第とか放校ということになります。

ということで、勉強せいよ。

 家族以外の集団は、みな「共通のお約束」をもって集っています。会社員だったら「仕事する」、学生だったら「勉強する」。そこを怠けるならば、その集団にいられなくなる「だけ」です。先生が「授業を怠ける」だったら、教師として居続けられないでしょう?

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

良い加減で適当に。

怠けると、のちの自分に返ってきます。
その時は、理由もわからずに勉強していることでも、
ひょんな時に役立つことがあります。
その時に怠けていたら、あとでやってくるピンチを
乗り越えられないかもしれません。

でも、適当に休憩することは必要です。
「一生懸命」と「怠ける」のあいだに、
「良い加減でやる」という項目を作り、
適当に頑張ってみましょう。

それがきっと、最終的に、「あの時怠けなくてよかったな~」
ということにつながります。

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おきもち

浄土宗の佐山と申します。 浄土宗教師の資格を得たあと、10年間のサラリーマン生活ののちに、この羅漢寺にお世話になり、2014年に住職として晋山いたしました。 現在は、「ここより」というサイトの編集長を務めています。 まだまだ悩める道の途中ですが、少しでも皆さまの力となれるよう、がんばります。

なまけているわけではない

Aという事をやっている。
その後Bという他の事をやる。
それはBに集中している姿でもあります。
脳がそっちをやることを求めているのです。
だからって、それを怠ける理由にしてはいけません。
やるべきをやれば必ずやった、という事がおこなわれるからそこに達成があります。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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