望むべきではない物をスッパリと諦めるには?
皆様からの、たくさんの真心のこもったご回答に助けられ、心の苦しみを除く方法を少しずつ理解し実践できるようになったような気がします。本当に感謝しております。
皆様のご厚意に甘えすぎているようで申し訳ないのですが、またご相談させて頂きたいと思います。
望むべきではないと分かっていても、つい望んでしまう事があります。いわゆる「無いものねだり」です。努力で手に入る物は別です。しかし、たとえ喉から手が出るほど欲しくても、諦めなければならない事はあると思います。
それを手に入れている他人が羨ましくなるたびに、「自分には縁が無かったんだよ」とか「私には分不相応なんだよ」と自分を戒めるのですが、私もなかなか欲深い人間で困ったものです、、、。
欲しいものへの執着を捨てて、きちんと諦めるために、どのように心を向ければ良いのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
欲しいと思うのはヒトの進化の結果
以前のご質問も読ませていただきましたが、私が感じたのは「少しご自身と向かい合い過ぎかな」という点です。
いや、それはとても素晴らしいことなのですが、物事には内的要因と外的要因の二つがあります。例えば外側から光情報が飛んできて、それを自分の目がキャッチし、脳みそで処理して「目で見る」ということが成り立つのですが、光情報が外的要因、目や脳が内的要因ですね。
心の中でこの内外のバランスが崩れると、「正しく見る」というスタンスが崩れて、苦が発生する原因の一つになります。
そうした時に、どうも北斗星さまの場合は『私には』分不相応のような内的要因の発言が多く、バランスが崩れているのでないかなという気がします。
お釈迦さまは異性への思いを止められらないお弟子さんをこんな感じにさとしました。「よいですか、人間というのはラッキョウの皮のように一枚づつむいていくと、最後に真ん中にあるのは大腸の中にある運の字なのですよ。それが人間の根本です。そなたが愛して止まない女性もつきつめれば運の字です。そう思えば女性への思いも変わってくるでしょう?」
このような感じで欲しい物の外的要因を考えてみてはいかがでしょうか?「自分には分不相応」ではなく「あれはそこまで良い物じゃないよ」と発想するトレーニングです。
もちろんその発想が行き過ぎ、うらやましい思いの裏返しで「あの人、あんなくだらない物もってるよ。ププッ」という感じになってしまうと、それはそれで苦を生みますが、程度の問題として「あれはそこまで良い物じゃないよ」と思っても良いのです。
あと、仏教では「○○が欲しい」という一次的欲求を煩悩(苦の原因)とは見なしません。これは本当に広く誤解されているのですが、違うんですよ。「もっと欲しい」という二次的欲求が煩悩です。正式な仏教語では『渇愛』と言います。
だから「欲しい」という思ってしまうご自分を許してあげることも大切です。一次的欲求はヒトの進化の結果なのですから、止めようと思っても止まりません。かえって止められないことが辛くなります。
そこを認めつつ、でも追いかけずに欲しいまま放っておけば、いつかそのうち消えます。なかなかスッパリとはいきませんけどね。スッパリとはいきませんけど、そういう心の持ち方を続ければ筋肉トレーニングのようにジワジワ効果が出てくるでしょう。
南無阿弥陀仏ー仏さまにお任せ
亀山純史と申します。残念ながら、無い物ねだりの心を無にする方法は、私にはありません。私から北斗星さんに伝えられることは、次のことです。
『無量寿経』には、「田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ。」「田なければ、また憂へて田あらんことを欲ふ。宅なければまた憂へて宅あらんことを欲ふ。」と説かれています。これはまさに今の北斗星さんの状態を言い当てている文言だと思いますが、経典で説かれているということは、何も北斗星さんだけに限ったことではなく、私たちは皆、そういうものであるということです。そして、良くも悪くも、「皆そうなんだ」という認識は、精神安定上、良いことです。さらに、現在の自分を少しでも高めようとするとき、現在の自分が他人(この場合は仏さま)から「皆そうなんだよ」と言われれば、「自分だけじゃないんだ。頑張ってみよう。」という気持ちにさせてくれます。しかし、それでは、いざやろう(欲望を抑えよう)としても、実際には、以前よりは少しはマシになるかもしれませんが、全てがうまくいくわけはありません。全く変化なし、ということだってあります。
そこで私がお薦めするのが、「南無阿弥陀仏」の念仏です。「南無阿弥陀仏」は仏さまからの呼びかけです。何と呼びかけているかといえば、「あなたの人生をこの私(=阿弥陀仏)に任せなさい。」と呼びかけているのです。「南無阿弥陀仏」と称えることによって、あなたの人生はあなたの人生でありながら、仏さまと共に歩む人生になるのです。
自分ひとりで何とかしようとしない。常に仏さまの支えがある。そんな人生を歩むならば、欲が必要以上に生じても(無い物ねだりの心が生じても)、自分の生き方を根本から否定することはなくなります。
以上、少しでもお役に立てればと思います。
どんな立場にも苦しみはある
独身の人には独身の苦しみがあり、結婚したら結婚の苦しみがある。
仕事が多ければ忙しい苦しみがあり、仕事がなければないことの苦しみがある。
社会的立場が高ければ高い苦しみ、低ければ低い苦しみがある。
おばちゃん達が団体旅行で旅先の名物を食べて帰って来ても、
しゃべる土産話は「たいして美味しくなかった」「あれでこの値段は高い」「しんどかった、やっぱり家が一番落ち着く」
など、苦しみの話が大半でしょう。
あなたは、旅行に行く前のオバタリアン(死語)です。
行ってみたら行ったなりの苦しみを味わって帰ってくる。
だから、行けるなら行けばよいが、行けなくてもたいして問題はありません。
…と、自分に言い聞かせて悶々と、しかし明るく苦しんでください。
私からのエールは「(苦しんで)ざまあみろ!でも愛してるぜ!」です。
今欲しがっていない自分に学ぶ
お釈迦様と道元様の遺言の教えに八大人覚というものがあります。
小 欲 その通りに処する事(本来が自分の我欲、私見を交えられていない姿だから)
知 足 その通りに処する事(本来が今既にこと足りていて何の過不足もないから)
寂 静 その通りに処する事(本来が人間の見解と無縁な静かなさまだから)
勤精進 その通りに処する事(本来の精にして雑ならざる混じりけのない様子)
不忘念 その通りに処する事(本来正念が守られた無私なる姿が誰しもの本来の様子だから)
禅 定 その通りに処する事(その事に心が定まっているから私見が入らない)
智 慧 その通りに処する事(知識理屈を離れて事実に住しているから苦を離れている)
不戯論 その通りに処する事(余計なことをあれこれ思わないから事実に住するのみ)
全部同じじゃないかと思われますでしょうが、その通りです。
悟りという山の頂上に、のぼる道は違えど、そこに違いはありません。
悟ったら、ただ、そこに居られるだけになります。
今あなたも、それを欲していなかった時があったはずです。
殊更に念じて、我が物にせん、との思いを犬の首輪をはずしてほったらかすようにしているから、それにやられてしまうのです。
完全に一人で生活してみてください。
他人を意識する、我が身に良からしめんと、我田引水する心が無くなれば、欲しがりがなくなります。
足るを知るというは、今足りている事をみるのです。
元々要らなかった。
今、自分の本来の様子に立ち返ると、そういうものを必要としていないことに目覚めるはずです。あなたがすでに手に入れたものは今、どこにあり、どのように扱われていますか。
この身を離れて存在しているはずです。
すでに手に入れたものでさえ、要らない、必要とされていない、変な表現ですが、❝要られていない❞のですから、この心身は、もう要らないのです。
そういう実質に学んでいるから昔の坊さんは、何も持たんでも平気になるのです。
質問者からのお礼
本当にありがとうございます。 皆様からご回答をじっくりと拝読させて頂いたこの2日間、心穏やかに過ごすことができました。心より感謝申し上げます。またいつか心が乱れた時も、その都度、読ませて頂くようにいたします。
丹下 覚元 さま
いつもご丁寧なご回答ありがとうございます!八大人覚、私にはまだちょっと難しかったですが、自分なりの解釈で読ませて頂きました。ありがとうございました。確かにおっしゃるとおり、以前は「それ」を欲しくなかった頃もあったし、今でも四六時中「それ」を欲しているわけではありません。本当に必要なものは、すでに足りているのですね。若い頃は「欲張り」であることがステイタスだと信じていた愚かな時期があり、欲しいものを手に入れることばかり考えていたような気がします。欲を野放しにしてはいけない、と肝に銘じます。
亀山純史 さま
いつもご丁寧なご回答ありがとうございます。最近は自分の生き方や人格を否定してしまう事が多く、苦しかったのですが、亀山純史さまのおっしゃるとおり、無いものねだりの気持ちが生じるのは私だけじゃないんだと思う事で少し気が楽になりますね。南無阿弥陀仏というお言葉、実にありがたい念仏なのですね。あまり意識しないで唱えておりました(ごめんなさい)。これからは仏さまと共に歩んでいるんだ、と意識して「南無阿弥陀仏」を唱えてみるようにします。
願誉浄史 さま
いつも分かりやすいご回答ありがとうございます! そうなんですよね、、おっしゃるとおりです。 人を羨ましがるときは勝手に妄想をふくらませて羨ましがるくせに、いざ自分が手に入れると大したものじゃないって思う事、今までもよくあったと思います。これからは無いものねだりが生じたら、「たいしてうまくない旅先の名物」だと思う事にします。それと、パンチのきいたエール、ありがとうございました! なんだか楽しく元気になりました^^
大慈 さま
ご丁寧で親身なご回答ありがとうございました。確かに、最近は自分を内に内に追い詰めていたかもしれません。20代30代はキャリアや恋愛、結婚、と充実していて、自信に満ち溢れていた頃もありました。その生活が崩れ喪失感で苦しみ、のたうちまわっているところを仏教に救われたのです。でも自己流だったため、必要以上に悶々と自分と向き合い、かえって苦しんでいたのかもしれません(苦笑)。ですから、こちらのサイトに出会えたことは幸いでした。大慈さまがおっしゃるとおり、欲しい自分を許しながらも「渇愛」は退けるよう、心がけるようにいたします。そして、これからはもう少し目の輝きを取り戻し、外に視野を広げて行きたいです。