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自分が情けなくて死にたくなる

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過食症で2ヵ月で13キロくらい太りました。食べるのがやめられない、止まらない病気です。ただのデブなので、周りからは自分に甘いヤツと思われているでしょう。痩せたくて、元に戻りたくて毎日が鬱状態です。1週間絶食のようなこともしましたが、爆発して結局ダメでした。誰にも会いたくないし、出かけたくないし、何もしたくありません。こんな自分が情けなくて死にたくなる時もあります。運動しても、普通の食事ができないので痩せません。心療内科にも行ったし、カウンセリングも受けたことがあります。でも、何も変わりませんでした。本当にうつ病になりそうです。デブは生きていて恥ずかしいと思うのです。夜もそういうことばかり考えて眠れません。本当に痩せたくて、戻りたくて悲しくて毎日が辛いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お辛いですね、でも病気は治りますよ

あめさんこんにちは、お辛いお病気ですね食べたくなくても食べてざるえないのですね。過食症は正直私はよくわかりませんが、あなたの文章を読ませていただいてお心の叫びが食事に向かわせている心の病気なのかなと思っております。ネットで読みましたがやはり過食症の方の相談でご自身が克服された方の言葉として過食症は「食べ物を食べることが目的でなく、食べることが目的」と言われておられます。どうですか実感がありますか?先ほど書いたようにあなた自身に過食症という病気を招いたお辛いことがあられませんか?その辛さや不安や焦りから心が逃れるために、食べることでそれから気を紛らすこととなられそれが習慣化してしまったのではありませんか?だとしたらその不安や恐れ、焦りに対して正面から見据えてください。すぐには解決できないものかも知れませんが、それが何なのかよく観察してください。その行為の中でそのストレスあたえるものの正体が見えてくるはずです。見えてくればそれだけでもストレスは減りますよ。それともう一つ、そのストレスを食べることでなく別の事で解消するようご自身で意識付けしてください。それは運動でなくても、マンガでもゲームでも、とにかく食べることを忘れるぐらい何かに夢中になれるものさがしてください。
病気ですから決して情けないものではありません。だいじょうぶ、そのお病気はなおりますから諦めないでください。

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有り難し
おきもち

長くサラリーマンをしていて、16年前先代の跡を継ぎました。住職となって改めて仏教の勉強不足を実感しています、未熟者です。 hasunohaは私にとって修行の場です。

仏像や仏画をみていますとぼっちゃりさんは必ずいます。
布袋さんもぷっくらです。
過食を治すには専門の医療機関がいいのではないかと思いますが、本当に治った人の口コミや実体験の無いところは効かないと思います。
過食症を治すというより、太ってて何が悪い、位のほうがイイのではないでしょうか。
世界中、みんなが同じ体型というのもなんだか。
私もぽっちゃりですが、余り気にしません。
食べたいもん食べて幸せです。
何かしなきゃ、に追われない方がいいですよ。
心が病んでおられるのであれば、そこに向き合うことで結果的に満たされて食欲で代行しなくなるでしょう。
どうしても、変えたいこと、なんとかしたいことがあったのではないでしょうか。
それが、手に入らない、変えられないことで、かわりを求めているのではないでしょうか。
耳つぼダイエット、添付しておきます。
https://matome.naver.jp/odai/2143690106722301301

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ