希死願望
キリスト教では、人は禁断の果実を食べた罰でエデンの園から追い出され荒野をさまよって労働して生きるようになった。そして死んだら、神の国で永遠の安寧を得ることになるという。仏教ではなぜかこの世は穢土、娑婆世界、苦しみに耐えないと生きていけない場所だという。浄土宗では亡くなる時は冥途ではなく、極楽浄土からお迎えがくるという。ならば、希死願望は否定できないと思いますが、希死願望は否定できますか?人の死は神仏の判断によると思っています。自殺は神仏に逆らうことで、地獄に落ちると思うので私はしませんが。
先日いとこが亡くなり、洗礼を受けてキリスト教式の葬儀を行いました。浄土教の我が家の仏壇でこのいとこのことを報告した場合、キリスト教の天国の魂と疎通できるものでしょうか。
お坊さんからの回答 1件
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お釈迦様は言いました。
「生きるとは努力すること。死ぬとは努力しないこと。」
私は浄土宗ですが、命を絶ちたいと願うこと自体は否定はしません。
東南アジアの国には政府に抗議するために自身に火をつけたお坊さんんもいます。
お釈迦様の弟子がお腹をすかせた虎の親子に身を捧げた逸話もあります。
しかしそれらは自分なりの使命感、目的をもって行ったことです。努力を放棄したのではありません。
お釈迦様の教えに反したのではないと私は思います。
ですから地獄に落ちることはありません。
また、仏教では神仏の判断で死ぬのでは無く、様々な縁や原因によって死という結果が生まれると考えます。
死にたいという願いも死につながる縁のひとつになります。
できることならそれ以上死につながる他の縁を増やさないようにできたらと願っています。
また、死にたいという願いも様々な縁による結果に生じたものだと思います。
その様々な縁のなかの一つでも消すことができたらいいなと願っています。