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もっと楽しくしたい

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有り難し有り難し 17

最近よく『死にたい』と思うときがあります。
何もかもうまくいかず、友達に裏切られ先生にも見捨てられます。
親に相談しようと思ったのですが、仕事が忙しくあまり迷惑をかけたくありません。
まだまだ人生は続くと思いますが、続くと思うと辛くなります。
でも今かえないと未来が暗くなる気がします。
どうすれば明るくなるでしょうか?
くだらない質問だと思いますが意見がほしいです。お願いします。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

世界は広い。今を楽しんで未来を待ちましょう。

学校の中だけが世界のすべてではありませんが、学生の頃は、学校がすべてだと錯覚してしまうんですよね。
社会に出れば、ウソみたいに世界が広がり、学校での辛い過去なんかほんの一瞬のできごとだったと思えるかもしれません。
大人になれば、世界のどこへでも、行きたいところへ行けます。
狭い日本の狭い学校の、ほんの短い時間のことで、未来を決めてしまうのはもったいないのです。
でも、何年も先の未来までガマンできないと感じるかもしれません。
まずは、今・ここの現在の瞬間に楽しみや喜びをみつけてください。
ほんの一瞬、小さなことでよいのです。
そのために、今までやったこともなかったことに挑戦してみる、参加してみるのも、一つの方法かもしれません。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

うまくいかなかった・裏切られた原因は?そして対策は?

ユメさんこんにちは。

>何もかもうまくいかず、友達に裏切られ先生にも見捨てられます。

この原因にこころあたりはありませんか?
そして今後どうしたらいいと思いますか?
もしあるなら、その原因にあたることをあらためればいいだけです。
いい勉強になりましたね。
もしこころあたりが無いようでしたら、ユメさんの言うとおり、
ぜひ親に相談してみてください。
先生に見捨てられる…なんてただ事ではないですから、
詳しく話せば必ずアドバイスくれると思います。

今現在目の前にあることから、
(今回の場合、「何もかもうまくいかず、友達・先生に裏切られた事」)
目を背けたり逃げずに、コツコツ精一杯取り組んでいれば、
必ず明るい未来になると思います。

ぜひ、具体的に行動してみてください。

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有り難し
おきもち

私にもありましたよ

人間って不思議なもんでねぇ、生きたいと思ったり、死にたいと思ってしまう事もあるものなのです。いずれ死んじまいますし、必ずいつかその時が全自動で来ますから、今死んじゃうのはモッタイない。もうちょっと楽しいこと見つけましょう。
私にとって楽しかったことは、死ぬほど悩んでも、死にたいと思っても、それでも今、生きててよかった、生きるのって超愉しー状態になってますから、一時的な思いって永遠性、永続性のものじゃないんだって、ことだけは覚えておくと良いと思いますよ。
(^<^)
そういう時こそ仏教が渇いたスポンジが水を吸収するみたいにはいってきますよ。
良かったら、もっと学んでみませんか?学校の学びも人生の学びも仏教の学びも自分の心を学ぶことってとっても楽しいですよ。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

親に迷惑をかけたくない?

何だか、この言葉をよく聞きます。それは、子どもから親に、親から子どもに。あなたよりずっと先、年老いた親が言うのです、「子どもに迷惑をかけたくない」とね。
自分のことについて、他人に関わってもらう。それ自体は迷惑でも何でもありません。何を、どの程度かも問わずです。「人の役に立てた」とか、「迷惑だ」というのは、その行為への見方というか評価です。そして、それを選択するのは、された側です。
あなたが、親御さんと同様に一人前である、つまり友達であるならば、「自分で考えなさい、自分で決めなさい」と言われるでしょう。また、一人前になりつつあると見られているならば、「こういう考えもあるよ」というアドバイスを貰い、自分で決める参考にもできるでしょう。
親の役目は、子どもを自立させること、一人前にすることです。ご飯を食べさせ、物を買い与えることは、その一部でしかありません。あなたが悩んでいる、物事を決めかねているのならば、それができるように助けるのが親の本分なのです。なぜ親御さんが仕事をしているのか?家族を守るためでしょう。そして、あなたを自立するまで育てるためでしょう。「子どもから相談される」というのは、親にとって実は嬉しいことなのですよ。「子どもが口をきいてくれない」と嘆いている親は多いのです。
ここからは、私の勘ぐりです。
多分いま、あなたは「どうせ話しても聞いてくれない。頭ごなしに言われるだけ。それが分かっているから、面倒くさい」と思っているのではありませんか?そうだとしたらオメデトウです。あなたは10代として、真っ当に育っています。そして、闇雲に親に反発する時期が、もうすぐ終わろうとしているのです。
教えられ、指示されるという関係から、相談する相手に変わりつつあるのです。「教えて欲しいんじゃない、意見を聞きたいの、決めるのは私だから」という気持ちを保ってお話すれば、きっと聞く耳を持ってくれると思います。
小野澤師も書かれていますが、「まずは具体的に、やってみなはれ」です。その結果が悪ければ、同じことをhasunohaに相談してごらんなさい。相談されるのが迷惑などころか、喜んで応えてくれる人たちが、たくさんいます。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

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