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メール、後悔しています。

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好きだった人にバッタリ10年ぶりに再会し、気持ちが高まり、相手がスルーするに関わらず、メールを4通も送ってしまいました。

1通目:返信こない(それまでの間は連絡がなんとか1週間程度続いていた)
2通目:1通目の1週間後に送信
3通目:2通目の2週間後に送信

全てスルーです。

バッタリ再会した時、私は就職したばかりの会社を退社するかどうか迷っていて、かなり精神的にやられていました。(その話は会った時にもしました)

そこで再会した彼に思いを馳せ、その妄想の中に生きることで何とかやり過ごしていました。

今は、メールをどんどん送って、しかも内容が退職の件とか重たかったことを反省しています。

人の気持ちが全然想像できない、わからない自分に気がつきました。

誰かに「生きててもいいよ」と許可をもらいたい位、自分を責めています。

3通目のメールの内容としては…退職できました。◯◯さんに偶然再会して励ましてもらったおかげで、納得行くまで考えられました。なんだか、◯◯さんの声が聞きたくなりました。お忙しいと思いますが元気になりたくて…云々です。

今思えば、本当に怖いメールです。

その後、あまりの恐ろしさに4通目、「一方的にいろいろすみませんでした。ありがとうございました。お元気でお過ごし下さい」みたいなことをその後、送ってしまったのも、子どもぽかったと反省しています。

何かご助言いただければ幸いです。

もう一度奇跡的に会えた素敵な人との別れを自分で作ってしまったこと。明日からも、ダメな自分と共に生きていくこと。

この2つからどうしてもやや逃げたくなります。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

どのみち誰を相手にしていたのでしょうね

相手と関わっていたように思えても、ご自分を相手にされていたのではないでしょうか?今も。
現実のその人は、そこにはいませんね。
あなたの中の、その人に対する気持ちを相手にされていたのではないでしょうか。
それは、今もです。
だからこそ、ちゃんとご本人様とのやり取りが大切なのでしょう。
今も、こう言った回答がある時に、ちゃんと文章を読んでみてください。
別にあなたに叱っている訳でもなく、ただ、ある一点にお気づき頂きたいだけです。
人間は自分流の思い方ばかりを相手にしています。
実際の本当に真実は、あなたが思っている底とはまるで別の動きをしていたということを、今、冷静に観て欲しいのです。
さっきまで、右を向いていた扇風機はもう、別の方向を向いているのです。
あなたが彼とお付き合いするとか、それ以前にあなたがお付き合いしなければいけないのは、あなたの想念よりも、あなたが肉眼や耳で直接、体感していることです。
こっちの事実はいつでも、ウソや脚色、妄想がありません。
さっきの扇風機で言えば、いつも風を送っている所を向いています。
あなたが今から彼に別の風を送風してもいいのですよ。
風向きを変えるのはあなた次第。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

そうですね。とても深くてすぐに「わかりました」とは言えませんが、なんとなくわかる気がします。私は私の思いを見ていただけのようです。そして肉眼や耳で聞いたことに目を向けるって、今の私には難しそうですが、これから取り組んだほうがよいかと思います。風向きは、、彼に向けてではなく、自分のために、どこかに変えたいと思います。ありがとうございました。

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