犯罪の理由
自分は罪を犯したことがあります。
それらも何か理由があって必然的に起きたのですか?
罪を犯したことも、避けようがなかった、仕方ないことだった、無理もない。
そう言ってしまってもいいのでしょうか
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
罪と向き合い、その先をどうするか
こんばんは、初めましてどうぞよろしくお願い致します
罪を犯す
大変物々しい言葉ですね
仕方ない、やるしか無かった、避けようが無かった
この様に他人事の様に言ってはいけないと思います。
罪を犯したのは外的要因がなんであれ、実行したのは自分自身なのです。必然であったとしてもまずそこを辛くても受け入れないといけません。
しかし、一番大切なのは罪を犯した…ではどうするのか?
懺悔、贖罪、他者に同じ轍を踏ませない
あなたが罪を犯した事はあなただけの経験です。
してしまった事を『してしまった』で終わらすのも、不本意で犯してしまってもそれを別の人に『教訓として聞かせる』のもあなた次第です。
あなたが罪を犯した事実は残念ながら消えません。しかし、罪を犯してしまったからこそ出来る事があるはずです。
もし悔恨の念があるのでしたら、どうかその経験を活かし、今あなたと同じ境遇になりそうな人がいたら誰よりもあなたが一番止めやすいのではないでしょうか?
アヒンサとアングリマーラ
ben hym様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
罪、悪業の原因は、煩悩と無明(根本的な無知)にあると以前にも述べさせて頂いておりますが、その二つを対治するための教えが仏教となります。
釈尊在世時に、バラモンの奸計(術)に掛かり、多くの殺人を犯したアングリマーラという者は、やがて、釈尊により犯した過ちを悔い改め、そして、仏道修行に励み、やがて正覚者となったと言われています。
このアングリマーラという者は、元々、「アヒンサ」(非暴力・非殺生)という名前であったほどの心の優しい青年であったものの、そのバラモンによって心が支配されてしまったことにより、罪を犯してしまったのであります。
純粋無垢な心の持ち主だったアングリマーラは、バラモンにより心が操られてしまって殺人を犯してしまったわけですが、私たちも同じように、産まれた頃は皆、純粋無垢な心であったものの、やがては、煩悩・無明によって心が操られてしまうことにより、罪、悪業を犯してしまっているようなものとなってしまっております。
本当の敵は、煩悩・無明。これを対治せずでは、同じようなことを繰り返してしまうだけになりかねません。
過去の罪・悪業については、もちろん、反省、懺悔、慚愧、改悛、償いをすると共に、これ以上は、罪・悪業を積まないようにすることと併せて、善い行いを積むことによって、これまでの悪業も浄化して善き因縁(原因と条件)を調えていくことにより、善き赴きへと向かって参りたいものとなります。
是非、そのために仏教の修習を進めて頂けましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
犯罪には理由がありますが、免罪にはなりません
犯罪と一口に言っても、たくさんの考え方があります。現代の法律に沿って言うのであれば、頭の中で考えただけでは犯罪にはなりませんが、宗教的には行為と同じ犯罪とみなすこともあります。
法律は大多数の方が暮らしやすくなるために作られたものですので、少数の方にとっては暮らしにくくなることもあります。そういう意味では相対的なものです。相対的なものであれば時代と共に変わる可能性があります。日本国憲法における結婚の定義も、現在では枠に入り切れないものも存在することが明らかになって来ました。
また、ある面では個人の感情によって、許す許さないの規範が変わることもあります。ですから問いの立て方が難しい課題だと思います。具体例をあげて質問していただく方が、回答しやすい課題だと思います。
一般論で言えば犯罪理由により情状酌量することはあっても、犯罪がなかったことにはならないので、免罪にはならないと思います。