「アブラハムの宗教の唯一神」の仏教的解釈を教えてください。
仏教は世界に名だたる宗教ですが、最も信者が多い宗教は何と言ってもキリスト教、ですよね?またイスラム教もかなりの影響力がありますし、それらの始祖たるユダヤ教も、アメリカの政経界に強い影響力を依然として持っていると聞きます。
そんな世界的な影響力の持つ、これら一神教が冠する「アブラハムの宗教の唯一神」に対して、仏教がなんのアプローチもした事がないとは個人的には考えにくいのですが、なんらかの仏教的解釈を加えて、仏教の中での位置づけ、みたいなものが決まっていたりするのでしょうか?
ヒンドゥー教や神道などの多神教の神々を仏教の中に取り込んでいくのは、日本でも本地垂迹の歴史等があったように、既にやられて来たことですし、個人的にもそこまで波風が立つような事ではないと思います。
が、流石に「アブラハムの宗教の唯一神」を仏教の中に位置づけようとすると、各一神教徒から「そうじゃねーよ唯一神なんだよ!仏の中に入れるんじゃねーよ」と大バッシングが食らいそうで、なかなか難しさを感じます。
他宗教との兼ね合いの話になってはしまいますが、もし仏教として果敢に唯一神を取り込もうとした歴史や、または現役のお坊さんとして私はこう考えているなどありましたら、小生にご教授頂けたら幸いでございます。
※最後に、小生はあくまで仏教や神道、一神教に対してはズブの素人です。質問文に根本的な間違いがあるかも知れません。その際はお手数ですがご指摘願います。
自分の発言が他人を苦しめるのではないかという危惧。 他人の発言の言葉尻を気にしてしまう自分の弱さ。 継続した努力が出来ない精神構造。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
なじまなかったのかと思います
拝読させて頂きました。
私は宗教学者でもありませんし、専門家でもありません。一介の僧侶ですし、一般人です。
ですからあなたが仏教の中での一神教の専門的な位置付けとして回答を求めるならば私は不適切かと思いますがどうかご了承頂きたいと存じます。
私もキリスト教もユダヤ教もイスラム教も興味はあります。彼らが示す一神教は私達には計り知れない強烈な力があるのでしょね。そして西洋文化であるメソポタミア・エジプト文明の起源から発生している事からも分かる通り西洋文明の歴史そのものでもあります。
それには人がその土地に生まれてきて文明や文字や歴史を持ったときに必然的に発生する生き方が其の儘信仰や宗教となっていったのかと思います。
歴史の大枠をみればその地方の人間の歴史はつまり侵略の歴史です。
そこでは我が部族は正統である、我々が生きて支配することが正しい、という考えで様々な部族が権力を握り国家を作りそして滅ぼされていきます。自分達の正当性を認めさせる為には一神教がどうしても必要なのかと思います。
又その土地の地域性や気候風土が大きく影響しているのではないでしょうか。
同時に人は自分達の生き残りを賭け争いを約数千年に渡り続けていますからね。ISが十字軍という表現をしますからずっとその抗争の歴史を続けています。今でも己の正当性を主張し合っているのです。
その際宗教は大いに戦争や侵略の道具として使われています。セットとしてずっと続いていますね。
日本でも当然侵略があったでしょう。様々な土地からこの列島に移り住んできて先住民と新たな侵略者とが抗争を繰り返したことでしょう。その中で信仰や宗教がはまり込んでいった融合していったのかと思います。そこでは強烈な一神教の信仰はなかなかなじまなかったのではないでしょうか。或は先住民族との融和を図る上で多神教の方が受け入れ易いつまり支配しやすかったのではないでしょうか。
仏教的な見地に戻りますが仏教は基本的に争いをしません。人を殺すことが悪であり罪だからです。戒律にも不殺生があるからです。そうはいっても仏教徒や教団が戦争をしたことがないかと言われればそうではありません。人を殺した負の歴史がありました。それは仏教の正しい教えに背いた罪です。
日本の中での仏教の歴史にはあまり一神教はなじまなかったのかと思います。至らぬ回答ですみません。
創造神や唯一絶対神
ウーゴ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
私見ながら、仏教では、基本的には、創造神や唯一絶対神というものは扱わないものであると考えております。
なぜならば、それらの存在があるとすれば、まず、仏教における重要な根本教説である「四聖諦」すらも成り立たない、要らないことになってしまうからであります。
つまり、全てが、神がお決めになったこと、また、お決めになられること、神次第であるとすれば(決定論・宿命論・運命論であれば)、私たちが、どのようなことをしようが、何を努力しようが、全て無意味となり、仏教においては、その基本的原理として根底にある因縁果の法が捻じ曲げられてしまう恐れがあるからでございます。
ですので、創造神や唯一絶対神というものは扱わないものとなります。
ちなみに、仏教では、如来も菩薩も明王も、天部の神々も、空(実体として存在していない)であり縁起(因縁など他に依って成り立っている)なるものとして存在していますが、それらの働きにおいても、決定論・宿命論・運命論的なものは当然に否定されるものであると考えております。
少なくとも拙生は上記のように理解させて頂いております。
川口英俊 合掌
仏教的な解釈はありません
お釈迦様がいたらこう言うでしょうね。
「神様?もし居るのなら会ってみたいですね。」と。
お経の中に梵天という神様的な者が出てきますが、それはお釈迦様の心の中の良心の現れです。魔羅という悪魔的な者も出てきますが、それはお釈迦様の心の中の悪心の現れです。
お釈迦様は心の中ので、よく両者と討論していたのです。
神様を仏教に取り入れる必要はありません。
十人十色、人それぞれ考えも違いますし、思想も信仰も違って当然です。個人の自由です。
そもそも仏教とは自分で考えることですからね。
ただ、私の信仰する阿弥陀様は元々イラン方面から伝わった神様ではないかという説もあります。阿弥陀様を信仰すれば死後に極楽浄土に行くというのは、お釈迦様の教えと少し違って、キリスト教などの天国と似ています。
もっとも、極楽浄土は天国とはそこに行く目的が違い、仏になるために修行する為の場所なのですが。
もしかしたら、何らかの神様的な信仰が、阿弥陀様として仏教に取り入れられたのかもしれませんね。それは現世で仏となれない、あるいは、仏になれなかった人への何らかの救いが必要だったのと合致したのかもしれませんね。
まあ、無理に神様を仏教に取り入れる必要はありません。縁があれば取り入れるし、縁が無ければ取り入れない、そういうことではないでしょうか。
果敢に取り入れる、というのは仏教は他の宗教より優れているとしたい我儘、欲、慢心、執着、苦しみ、につながりますから、控えたほうがいいと思います。
私が個人的な妄想を楽しむ場合ですが
私が個人的な妄想を楽しむ場合にはこう考える、ということで書かせていただきます。
仏教では、神様といえば天や梵天と呼ばれる生き物の一種(人間よりレベル高い)です。
旧訳聖書がいつできたのかは知りませんが、キリスト教はお釈迦様の時代より500年くらい後です。
お釈迦様の出現後に、神様の態度が何か善い方向に変わったとしたら、それはもしかしたら神様がお釈迦様の教えを参考になさったからかも知れません。
たとえば、神様がお釈迦様の慈悲の精神に感銘を受け、仏教の菩薩を参考にして、500年後にイエス・キリストを遣わした、という可能性も「妄想」できます。
実際のイエスさんが仏教の影響を受けていたのかは不明ですが。
いずれにせよ、神様(梵天や天)は、まだ成仏していない存在なので、神様にも煩悩があります。
煩悩があるなら、神様も間違いを犯す可能性があります。
質問者からのお礼
皆様、お答え頂きありがとうございました。
やはり一神教とは根本的な出発点が違うのが仏教なのだと大いに納得致しました。
また機会がありましたら愚問にお付き合い頂けたら幸いでございます。