無常観と向き合いたい
昔から断続的に、無常観に由来する虚しさに襲われます。
研究が上手く行った時、恋人と互いを大切にできた時、音楽で満たされた時、古典を読んで古人と共感した時、夕焼けや木漏れ日など身の回りの自然に感動した時、幸せを感じることは多いし、上手く行っているときは自分が本当に幸せで、信じられないくらい恵まれていると思えて、自分を取り巻く全ての人や、私に恵みを与えてくれた運命か何か、すべてに感謝しています。
しかしそのようなポジティブな気持ちは長くても一月も続きません。何か上手く行っていないことをきっかけに私はまた、無常観に捉われるのです。
結局人は皆死ぬし、文明も人類も滅びるのに、自分はなぜ何かを残そうとしてもがいているのだろうか。究極的には人は孤独で、全てをわかり合うことはできないのに、なぜ時に寂しくなりまた傷つくのだろうか。全て消え行くのになぜ生きるのか、自分の行為1つ1つには何の意味があるのか。
私の虚しさは、もし、一神教の神を信じることができたら、私の悩みは救われるような気がします。善悪を教えてくれ、自らの行いを見て報いを与えてくれる神の存在を信じられれば(そんな単純ではないかもしれませんが)。しかし、そのような価値基準と人格を持った神を、私は信じることができないと思います。
私は人智を超えたものを否定しているわけではありません。たとえば、個人の力ではどうしようもない巡り合わせは存在して、それを運命と呼びうると思います。
しかし、私が科学者であることと関係があるかもしれませんが、それらは価値判断とは無関係なニュートラルなもので、人間に喩えられるような心を持っているとは思いません。ですから、自らを神に任せることで苦しみから解放される、という類の救いは私には訪れない気がします。また、そもそも、人智を超えたものも、全ての価値も、結局人間の心が生み出した共同幻想である、という考えから自由になることはできません。するとやはり虚しくて辛くなります。
なんでも構いません、このような私が、無常観から逃れる、もしくは無常観と向き合うヒントをいただければと思い質問させていただきました。
悟りを得る具体的な行動や、東京都文京区に住んでいるので、具体的な法話や修行のご案内もぜひお願いします。この質問をきっかけに、長年の悩みに前向きに取り組めたら嬉しいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
二項対立から離れる
ゆずりは様
本質的なご質問が、ふと目に留まりましたので、久々に思うことを、長文になりますが書いてみることに致します。
幸福感と虚しさについてですが、仏教では理性に対してふたつの「智」を説きます。即ち、「分別智」と「無分別智」のふたつです。私たちの日常は、常に二項対立の狭間で揺れているのが現状とは言えないでしょうか。幸/不幸、善/悪、美/醜、好/嫌…
全く相容れないそれらの両極も、実は一枚の紙の裏と表だと観る第三の視座を、仏教では重要視致します。大雑把に述べれば、分析的な左脳と、直感的な右脳とのバランスを重視していると思われます。
私たちは、この世界を言語で構築していると言えるとも思いますが、言語に拠らない世界との繋がりを取り戻す重要性があると思うのです。
物理学で、数式の破綻と言われる「0=∞」は、私には大いなる調和とも思えるのです。「絶対矛盾的自己同一」の真意も十分に理解してはおりませんが、分けていく科学的な知恵と、共通項にフォーカスして統合的に捉える智慧とのバランスが必要な気がしております。この辺りのことは、アインシュタインやデヴィッド・ボームが、インドの聖人にヒントを求め、その先に量子力学が構築された経緯にも現れているようです(参考:『時間の終焉』クリシュナムルティ&デヴィッド・ボーム対話集)
仏教の教えのエッセンスは、「諸行無常」に続き、「諸法無我 涅槃寂静」が説かれています。諸行無常:この世界はすべて移り変わる。諸法無我:この世界には実在(本質)はない。涅槃寂静:マインドの働きが止まれば静寂である。
静寂を感得するためには、簡単でなおかつ副作用のほとんどない呼吸法をお勧め致します。
◯数息観(すそくかん)⇒http://shukai.seesaa.net/s/article/190960250.html
また、回答へのお礼の最後に書かれている件ですが、「無常観」はこの世界をただただそうであると観るだけで、そこに感情が絡むと虚しくなったり、あきらめから怠け心が生じたりするのではないでしょうか。相容れない両極を離れて、ただそれを眺める視座は、呼吸法やヨーガや茶道などで培われるものだと実感しております。
冗長となりましたが、ご参考となれば幸いです。
河野秀海拝
追記 素晴らしいことです!
無常に気付いていることは、仏教的には素晴らしいことです。
手塚治虫の漫画「ブッダ」で、ブッダ(お釈迦様)が、ある乱暴者にこんな話をした場面があったと思います。
その乱暴者は誰かを憎んで、殺意を抱いていたのですが、ブッダは、お前が憎んでいる相手はどうせいつか死ぬんだから、わざわざ殺す必要はない、というようなことを言ったのです。
無常観は、欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩(悩み苦しみの原因)を消したり制御したりすることに役だちます。
無常観を、悩み苦しみを軽減するツールとして心の中で自由自在に出し入れできるようになってください。
追記
怠けと無常観について
例えば、無常だからこそ時間を無駄にしないよう精進しようとか、
心(感情)は無常だから一過性の感情に流されないように精進しようとか、そういう考え方はできると思います。
質問者からのお礼
回答ありがとうございます。
>無常観は、欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩(悩み苦しみの原因)を消したり制御したりすることに役だちます。
無常観をそのように前向きに捉えたことはありませんでした。無常観と上手く付き合うきっかけをいただけました、本当に有り難いです。
一つだけ、気になったことがあるので、重ねて質問させてください。
無常観は怠けを助長してしまうような気がします。どうせやっても虚しい、という気がしてコツコツ積み重ねることをやめる言い訳にしてしまうことがあります。どうすれば無常観を怠けの制御に活用できるのか、教えて頂けたら幸いです。