間違った仏教用語
仏教用語が日常に深く溶け込んでいますが、日常的に使われる有名な仏教用語の多くが正反対の意味で使われています。
僧侶の皆様はあまり気になりませんか?
悪い意味で反対の一例
他力本願→自分では何もしなくて他人(人)にしてもらう事
調子に乗る→いい気になって物事を行う
諦める→放棄する
我慢→辛抱すること
内容が合わない一例
縁起でもない(縁起が繋がらない事も無ければ、良いも悪いもない)
因果応報(悪いこと限定なわけがない)
原始のブッディズムに非常に興味があります。 大乗仏教の教えの中にもブッダの言葉があるのかもと思い探しています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
間違っているというか…
言葉の解釈が、限定されているなぁーとは思いますね。
例えば、
因果応報=鏡
身口意による行為を時間や自分以外の対象などを軸にして挟んだ、鏡みたいなもので、そもそも良し悪しは存在しない。
ただ、解釈したヒトが、鏡に映った悪い(とその人が主観的に解釈している)部分のみに意識を向けているだけ。
鏡が「自我による解釈」という汚れで曇っていて、きちんと全体を映すことができない状態なんです。
なので、その行為や解釈自体が、間違っているわけじゃなくて、単に偏った見方をしているだけなんです。
例えば、エマ・ワトソンが、鏡見ながら
「今日のワタシ、顔がむくんでイマイチだわー」って思っても、一般市民からすれば、「いやいやいや!今日も、超絶美人ですよ!」って思いませんか?
でも、「イマイチ」も「美人」も主観的な解釈なので、どちらかが正しかったり、間違っているワケじゃないんですよね。
そして、主観的が無数に集まると「常識」になるだけで、「常識」=絶対的に正しいというワケでもない。
そんなことが、仏教用語レベルで起こっている、という印象。
だから個人的には「間違いだよ!プンスカ!」とは思わないけど、「もっと了見を広げて、言葉を自由にしてあげられたら良いのにね」とは思います。
質問者からのお礼
>>妙香様
お返事ありがとうございます。
文字も発音も文法も変わらないのにその意味するの解釈が変わっていくとは、言葉というものもまたあやふやなものですね。