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亡くなった母に対する思い

回答数回答 3
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私の母は、3年前に癌で他界しました。

話せばとても長くなるので、ここでは書けませんが母は父に捨てられたりとても辛い人生だったと思います。

なくなる2年前に母は56才で若年性アルツハイマーになりました。
父とは離婚していましたし、私には姉もいるのですがアルツハイマーで話がめちゃくちゃな母と話をするのも嫌だと近寄りませんでしたので、母子家庭だった私が母のすべてを受け入れ一緒に暮らし介護してきました。

母子家庭という責任もあるなかの介護だったので、私もかなりのストレスでした。
徘徊する母を何度迎えに行ったかわかりません…

元気な頃は母子家庭だった私を助けてくれた大切な母だったので日頃はストレスを感じながらも笑顔で接していましたが、2年たつころからイライラが酷くなり私も鬱になっていまい、母に怒り散らすようになってしまいました。
いろんなものを勝手に持ち出したり隠したりされる度、言ってもなにもわからないことはわかってはいながらも、怒りを抑えきれず怒鳴り恥ずかしながら最後は手まで出してしまいました。
これではいけないと、行政に相談し施設で生活するようにさせてもらいました。
母はその後約一年で癌になりすぐに亡くなりました。
亡くなる前のまだ話せるころは、母は姉や父が顔を見せても知らない人だと言いましたが、最後の最後まで私と私の娘の名前は覚えていて、顔をみると名前を呼び、一緒に帰りたいから連れていってと言いました。

どんな事情があったにしろ、今でも母に手を出してしまったことを深く後悔し反省して胸が苦しくなります。アザのある母がそれでも私の名前を呼びニコニコしていた姿が今でもハッキリ頭に残っていて忘れることができません。
思い出すたびに涙がとまりません。
いくらお墓参りに行っても心が晴れません。
この気持ちは母には届いているでしょうか…母に許してもらうことはできるでしょうか…
とても苦しいです
反省し、母に気持ちを伝えたい反面心の奥で『私も大変だったから』という気持ちがどこかにあるせいでこのような自分を守るような書き方になってしまっている…ということもわかってはいます。
そんな気持ちになってしまう自分も許せません…

混乱して長文になり申し訳ありません


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お母さんの名前を呼んでみましょう

はじめまして、たかえさん。亀山純史と申します。

たかえさんのお母さんは、介護される身となって、あなたをお育てになったのではないでしょうか。たかえさんは、お母さんを介護することで、人は如何に未熟な存在であるのかを知り、今、こうして深い悲しみの中におられます。しかし、この悲しみの中から人としての成長が生まれるのだと思います。無理をして心を晴らす必要などないと思います。

さて、最後の最後まであなたの名前を呼び、ニコニコ笑っていたお母さん。お母さんにとってあなたの名前は、単に一人の人間を指し示す言葉ではなかったはずです。あなたの名前を呼ぶことでお母さんは安心なさっていたことだと思います。それは、あなたを最後まで頼りにしていた表れです。それならば、今度は、たかえさんの方から、お母さんの名前を何度も何度も呼んでみてはどうでしょうか。きっと、たかえさんの心の中に生き続けるお母さんは、生前のようにニコニコ笑ってあなたの呼びかけに応えてくれることでしょう。それがまた、あなたを人として大きく成長させてくれることだと思います。お母さんは死んでもなお、あなたをお育てになってくださいます。

最後に、私の回答が少しでもお役に立てれば幸いです。
※漢字の間違いがありましたので、訂正いたしました。(9/26 19:37)

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おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

後悔なんて要りません。お母様はあなたの中で生きていきます。

あなたは、そのときそのときの最善をつくして生きてこられたのではないですか。
今思うと、そうなだけであって、その時はいっしょうけんめいにお母様のために、と思って決断し、行動してきた結果だったわけですから。

お母様はあなたを恨んでなんかなかったはず。大丈夫です。
これからできることは、先祖の供養とともに、あなたがお母様から学んだことを生かし、生きていくことでお母様の命があなたの中で生きてくるのです。

あなたの中にお母様の命は継承されています。後悔していのちを殺してしまうのではなく。生かすことが大切です。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

インナーマザーからリアルマザーへの出逢い

人はおよそ母親だと思って相手にしているのは、自分の内なるインナーマザーである場合がほとんどです。
インナーマザーとは、幼少期よりずっと母親と共に生活をしてきた中で、自分の中で強く築かれてきた母親に対する内なる気持ち、虚像、想い、私の中のお母さんイメージです。
あなたの心の中にはお母さんが強く存在しています。
ですが、それは、あなたのプライベートなお母さんであって、オフィシャルな、パブリックな、公的なお母さん像ではありません。
ドラマの中の痛ましいシーンだけを切り取って、それがお母さんの全てであると思い込んでいしまっているだけです。
お母さんはもっと多面体、無限面体です。
もっと楽しかったころもあるはずです。
もっと優しい関わりだったこともあるはずです。
お母さんがもし生きていたら、そこを観ておくれといっているに違いありません。
あなたがお母さんへの供養として、そこの呪縛から解放されることです。
自分の中のお母さんを観ている状態です。
無くなった今でも、お母さんとのかかわりは心の中で新しいものとして日々、生まれ変わっています。今日は今日で、新しく合掌し、供養してください。
そうすることであなたはインナーマザーではなく、リアルマザーである、真実の「母親」をそこに見出し、語らう事が出来るでしょう。
それがあなたの中での本当の成仏です。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。
文章を読みながらまた涙が溢れています。
ふさぎこんでいたのが救われた気持ちがしました。
人として少しでも成長できるよう努力し、これからも母への感謝の気持ちを忘れず過ごしていきたいと思います。
本当にありがとうございました。

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